同居記録:8

同居記録:8
☆「とんでもない事になった」。

一日の世話に疲れ果て、崩れ始めた私達の生活。私のこれからの人生を思うと、「とんでもない事になった」、と思った事が何度あった事か・・。覚悟はあっても、じわじわと堪えてくるのです。
歩けない母親を蔑んだ事もあります。「どうしたお袋!」、と母を責める心。「認知が言わせる言葉じゃないか。それが老いさ、俺もやがては母の気持ちも分かるさ」、と母を護る心。私の心の中ではいつも二つの人格が闘い、思案続きの日々に過呼吸症気味になっては息苦しくなる夜が何度もありました。
母もそんな私の表情を読み取るのでしょうか、「私は佐世保に帰るよ、大和町に帰りたい。それが駄目なら・いっそ殺しておくれ」、と叫びます。それは悲痛なくらいの表情で叫ぶのです。
母も悔しかったのだと思います。思うようにならない自分の身体と監視される辛さ。「こんなはずじゃない・」、という思い。「お願い、助けておくれ」、と言ってしまう自分。「いつの間に、私は・・」、と昔を振返ろうとしても思い出せない中抜けの記憶。
母はこの3〜10年の自分の暮らしを断片的にしか振返れません。母が思い出す事の多くは50〜80年前の事ばかりでした。しかし、母の思いは思いとして、現実には母には独居など到底無理。「ああ、姉や兄も母のこうした姿を見て途方に暮れていたんだ」、と実感させられたのでした。

☆鍼・灸・マッサージ。自分が変わって見せるしかない。

このままでは母も私達夫婦の暮らしも駄目になると、本当にそう思いました。思い悩んだ私は、「母には姉や兄と同居した時と同じ日常を与えていては駄目だ」、と考えました。今の母には長女夫婦や長男夫婦と過ごした時間とは違う、私ならではの何かを与える必要があると考えました。それが母を変えるかも知れないと思ったのです。
「そうだ、母に指圧やマッサージを試みてみよう」、と思いました。周囲が嫌がる仕事や根を上げそうな仕事をコツコツと根気よく続ける事は割と私の性分にあっているのです。マッサージくらいは誰にでもできますが・・。
私は嫁に言いました。
「この現実から逃げちゃいかん。これは俺が神から科せられた修行なんだ。母に変化を望むなら自分が変わって見せるしかない」、と薄暗い部屋の中で天井を見上げて呟いていたのです。私はこの頃から妙に涙もろくなっていきました。
私は必死でした。歩行ができない母に対する朝夕のマッサージにお灸、そして、素人は行なってはいけない鍼さえも専門家の元へ習いに通いました。母が訴える痛みを私自身が痛いかのような素振りで幾つかの鍼灸院に通ったのです。しかし、実際に母への鍼を施術しようとする段になると習った通りの部位へ打つというのは怖いものがありました。結局、この頃の母への鍼は無難で安全な部位にしか打たないという、そんな程度のものになっていたようです。

☆私自身が抱えている腰椎分離骨折滑り症。

実は、母の来熊の約3年前、私は自分の野球チームの練習中に転倒して背中の一部の骨が縦に割れるという、正確には腰椎分離骨折すべり症という状態になり、背骨を支えている左右の腰椎が割れてボルトを入れて支える手術を勧められた時期がありました。しかし、約2年を費やしてボルト固定と取り外しの2回の手術をしても完全な元の身体に戻る保証はなく、私は野球を続ける中で腹筋を鍛えて背骨を安定させる方法を選びました。現在でも背骨が臍の方向にズレたままで、天候や季節によって左右の足に痺れがあり、その度に私は自分で、「痛てっ、この野郎」、とか言いながら自分自身に施術しています。だから、私は鍼治療で痛みや痺れが消える事を自分の身体で知ってはいたのです。

☆私の迷い。草野球チームの解散を決意。

母の来熊直後の転倒、そしてその後に始めた必死のリハビリ。こうしたリハビリは母にも私にとっても大変な忍耐と努力を伴いました。
連日、母に施した全身へのマッサージに鍼やお灸。そして、寝たきり生活で関節が固くなってもいけません。私は横になった母の両足を私の胸や腹に当て、「足突っ張りさ、自転車を漕ぐようにして俺の胸や腹を蹴ってみてくれ」、と言っては母に蹴らせました。この運動が私の腹筋も鍛えてくれるのです。また、母の手の指の間に私の指を入れては「力の入れっこ」をしたり・・。
そして、私はそれまで十数年と続けた大好きな草野球チームも解散する事を決意します。因みに、私の草チームのジャガーズは1999年度は熊本全県下で20位を争う成績を残す程の自慢のチーム。当時の新聞の地方版には監督兼選手として私の活躍を報じる記事が残ってもいます。
私は職場に行く日を減らしては週の大半を母と過ごす事になりましたが、凄い決断と代償が必要でした。

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