同居記録:4
同居記録:4
☆独居5年目、母が危篤状態になった事。
母は父没後6ヶ月頃、当時1軒目の家を建てた私の家を祝いに訪れています。私が27歳の時です。この時の母は私の家から400mもあるスーパーに行ったり、「昔風の魚屋さんのある場所を教えておくれ」、と場所を聞き、翌日には4Km近くもあろうかというその魚屋さんに買物に行っては私達夫婦の為に夕飯を作ってくれました。
「2週間くらいは居させて貰うよ」、と言っていたのですが、この時に左腕が痺れたり、左脇の下が痛み出したという事で5日ほどで佐世保に戻っています。そして、この後も母は約4年間に渡って不定期に左腕や脇の下付近に鋭い痛みを感じるようになっていました。そして、独居5年目を終える69歳の時に強い心臓発作で倒れ、搬送先の病院ではICU治療室に寝かされ、ペースメーカーを埋める手術はできずに心臓の状態を電波で飛ばして24時間監視をされるという状態になったのでした。
☆母が私にはより心を開くことを知っていた。
ここで、どうしても書いておかなければいけない事があります。それは、私に対する母の特別な思いの事です。
危機状態を乗越えたという医師の判断で一般病棟に移そうとした途端、再び発作を起こすという厄介な日が続きました。
勿論、子供達は最悪のケースを想定して病院に駆けつけていました。この時、母はベッドの傍らに姉や兄が居るというのに、私を枕元に呼んでは、「尚宏、・・おしっこ」、と小さな声で言うのです。姉や兄嫁などは、「一体、この隔たりは何なのだろう」、と思った事と思います。
幼い頃からの私の知る限り、母はずっとそうでした。母は姉や兄の前では母親であろうとする気持ちが強いのですが、私の前ではか弱き女性になる事が多かったのです。よく、母は父や姉、兄に背を向けては白いエプロンの裾で涙を拭き、時には私を抱きしめ泣く事がありました。姉は現在でさえ、母の泣いている姿は見た事がないと言いますから不幸な事です。この母の姿は私しか知らない事です。
思えば長女は父に似て学問が大好きで、家での姉は勉強机に向かう事多く、兄は陸上競技や野球に没頭。私と姉は7歳違いで私と兄は3歳違いなのですが、私は姉と遊んだ記憶がありません。体格のいい兄は常に2〜3歳年長組とスポーツをしていて、いきおい、母と私が二人だけで過ごす時間が多かったのです。
買物にしても私は心臓の弱い母について回り、やがては買物自体を幼い私が母の書いたメモを頼りに引受けるという、そんな日常が当り前のようになっていました。遊び心からではあったのですが、私は畑に胡瓜や茄子を作っては母に買い上げて貰ったり、カマドで米を炊く母の腰が痛くないようにと1回座っただけで壊れてしまうような椅子を作ってみたりと・・、幼い頃の私と母は一心同体のように仲が良かった事を覚えています。いつも私は母が喜ぶ事を考え、母もそんな私を可愛がってくれました。しかし、母が私を特別に可愛いがったのはそうした事だけが理由ではなかったのです。
☆母は4人目の子供に注ぐはずの愛情まで私に注いでくれていた。私の不思議な体験。
実は、母には姉や兄、私には伝えていない積年の苦しい胸の思いがあったのです。私はその事を臨終宣告を受ける程の9歳の時の大手術中に知ったのでした。それは不思議な体験でしたが、私はその事を父が没すまで母にも兄弟に対しても口に出す事はありませんでした。母は私に愛情を注ぐ事で心の傷を癒そうとしていたのです。
前述したように、私は9歳の時の腹膜炎手術の最中に私の左横で血圧を測っていた看護婦さんの、「先生、血圧が30に下がってしまいました」、という言葉と、「手術中止します・・・臨終」、という医師の声を聞いたのです。
9歳の子供が臨終という言葉の意味が分かるはずはありません。しかし、「自分が違う世界に逝く」、という感覚はあるんです。やがて、私はその不思議な世界に導かれた先で祖父に会い、祖父に右手を引かれた私の弟と出会ったのでした。神仏に対する知識も関心もない僅か9歳の子供が見た紫色の世界。それは、本当に不思議な世界でした。実は、私は9歳時にこの世界で感じた事を【母に生命を返す時】として伝え残そうとしているのかも知れません。
☆[母に生命を返す時]の意味、真意。母親の魂の篭もった祈りは神仏よりも強い。
「母親の魂の篭もった叫び声は神仏よりも強い」、と私は思います。
「尚宏、尚宏・・、頑張っておくれ」、「尚宏、死なんでおくれ!」。オペ室のドアの向こうで悲しみに泣き叫ぶ母の声はあの紫色の世界にまで響き渡ってきました。
私はかの地で祖父、弟と話をする事ができました。「もう、いいじゃないか。もう、痛み苦しみはお休みにしなさい」、と祖父が私に手を差出していました。弟を見ると、「ボクの苦しさが分かるかい」、と訴えていました。しかし、弟に続いて二人目の子供を失いたくない母の必死の叫び声は間違いなくかの地に響き渡ってきました。一瞬ですが、「ボクは母チャンを放っておけない」、と思ったのです。そして、かの地を離れた私は母の叫ぶ声を頼りに再びの現世に戻ったのだろうと思います。
母は4人目の子供を堕胎しなくてはいけなかった事に対し、ずっと深い悲しみを背負って生きていたのです。だから、母は私の次に生まれるはずだった子供への愛情までをも盲目的に私に注いでいたのです。
母が69歳時、あの心臓発作で倒れた時の病院で見せた母の態度。「尚宏・・おしっこ」、という言葉。今思えば、あの時の母は私と私の背後にいる弟を呼び寄せていたような気がしています。「もうすぐ、私はお前達の住む所へ行くのよ・・」、と。
私は、確かに現世には生きていますが私の魂はあの9歳時の臨死体験の際から祖父と弟の隣に置いてきているような気がしています。それとも、あの時に魂だけが弟と入れ替わり、ここに居る私は弟なのかも知れないと思う事がよくあります。
あの若い頃、自分の存在を探して山に篭もったように、「母に生命を返す時」を書くことで自分が与えられた2つ目の命が誰のものかを今も探しているのかも知れません。
☆独居5年目、母が危篤状態になった事。
母は父没後6ヶ月頃、当時1軒目の家を建てた私の家を祝いに訪れています。私が27歳の時です。この時の母は私の家から400mもあるスーパーに行ったり、「昔風の魚屋さんのある場所を教えておくれ」、と場所を聞き、翌日には4Km近くもあろうかというその魚屋さんに買物に行っては私達夫婦の為に夕飯を作ってくれました。
「2週間くらいは居させて貰うよ」、と言っていたのですが、この時に左腕が痺れたり、左脇の下が痛み出したという事で5日ほどで佐世保に戻っています。そして、この後も母は約4年間に渡って不定期に左腕や脇の下付近に鋭い痛みを感じるようになっていました。そして、独居5年目を終える69歳の時に強い心臓発作で倒れ、搬送先の病院ではICU治療室に寝かされ、ペースメーカーを埋める手術はできずに心臓の状態を電波で飛ばして24時間監視をされるという状態になったのでした。
☆母が私にはより心を開くことを知っていた。
ここで、どうしても書いておかなければいけない事があります。それは、私に対する母の特別な思いの事です。
危機状態を乗越えたという医師の判断で一般病棟に移そうとした途端、再び発作を起こすという厄介な日が続きました。
勿論、子供達は最悪のケースを想定して病院に駆けつけていました。この時、母はベッドの傍らに姉や兄が居るというのに、私を枕元に呼んでは、「尚宏、・・おしっこ」、と小さな声で言うのです。姉や兄嫁などは、「一体、この隔たりは何なのだろう」、と思った事と思います。
幼い頃からの私の知る限り、母はずっとそうでした。母は姉や兄の前では母親であろうとする気持ちが強いのですが、私の前ではか弱き女性になる事が多かったのです。よく、母は父や姉、兄に背を向けては白いエプロンの裾で涙を拭き、時には私を抱きしめ泣く事がありました。姉は現在でさえ、母の泣いている姿は見た事がないと言いますから不幸な事です。この母の姿は私しか知らない事です。
思えば長女は父に似て学問が大好きで、家での姉は勉強机に向かう事多く、兄は陸上競技や野球に没頭。私と姉は7歳違いで私と兄は3歳違いなのですが、私は姉と遊んだ記憶がありません。体格のいい兄は常に2〜3歳年長組とスポーツをしていて、いきおい、母と私が二人だけで過ごす時間が多かったのです。
買物にしても私は心臓の弱い母について回り、やがては買物自体を幼い私が母の書いたメモを頼りに引受けるという、そんな日常が当り前のようになっていました。遊び心からではあったのですが、私は畑に胡瓜や茄子を作っては母に買い上げて貰ったり、カマドで米を炊く母の腰が痛くないようにと1回座っただけで壊れてしまうような椅子を作ってみたりと・・、幼い頃の私と母は一心同体のように仲が良かった事を覚えています。いつも私は母が喜ぶ事を考え、母もそんな私を可愛がってくれました。しかし、母が私を特別に可愛いがったのはそうした事だけが理由ではなかったのです。
☆母は4人目の子供に注ぐはずの愛情まで私に注いでくれていた。私の不思議な体験。
実は、母には姉や兄、私には伝えていない積年の苦しい胸の思いがあったのです。私はその事を臨終宣告を受ける程の9歳の時の大手術中に知ったのでした。それは不思議な体験でしたが、私はその事を父が没すまで母にも兄弟に対しても口に出す事はありませんでした。母は私に愛情を注ぐ事で心の傷を癒そうとしていたのです。
前述したように、私は9歳の時の腹膜炎手術の最中に私の左横で血圧を測っていた看護婦さんの、「先生、血圧が30に下がってしまいました」、という言葉と、「手術中止します・・・臨終」、という医師の声を聞いたのです。
9歳の子供が臨終という言葉の意味が分かるはずはありません。しかし、「自分が違う世界に逝く」、という感覚はあるんです。やがて、私はその不思議な世界に導かれた先で祖父に会い、祖父に右手を引かれた私の弟と出会ったのでした。神仏に対する知識も関心もない僅か9歳の子供が見た紫色の世界。それは、本当に不思議な世界でした。実は、私は9歳時にこの世界で感じた事を【母に生命を返す時】として伝え残そうとしているのかも知れません。
☆[母に生命を返す時]の意味、真意。母親の魂の篭もった祈りは神仏よりも強い。
「母親の魂の篭もった叫び声は神仏よりも強い」、と私は思います。
「尚宏、尚宏・・、頑張っておくれ」、「尚宏、死なんでおくれ!」。オペ室のドアの向こうで悲しみに泣き叫ぶ母の声はあの紫色の世界にまで響き渡ってきました。
私はかの地で祖父、弟と話をする事ができました。「もう、いいじゃないか。もう、痛み苦しみはお休みにしなさい」、と祖父が私に手を差出していました。弟を見ると、「ボクの苦しさが分かるかい」、と訴えていました。しかし、弟に続いて二人目の子供を失いたくない母の必死の叫び声は間違いなくかの地に響き渡ってきました。一瞬ですが、「ボクは母チャンを放っておけない」、と思ったのです。そして、かの地を離れた私は母の叫ぶ声を頼りに再びの現世に戻ったのだろうと思います。
母は4人目の子供を堕胎しなくてはいけなかった事に対し、ずっと深い悲しみを背負って生きていたのです。だから、母は私の次に生まれるはずだった子供への愛情までをも盲目的に私に注いでいたのです。
母が69歳時、あの心臓発作で倒れた時の病院で見せた母の態度。「尚宏・・おしっこ」、という言葉。今思えば、あの時の母は私と私の背後にいる弟を呼び寄せていたような気がしています。「もうすぐ、私はお前達の住む所へ行くのよ・・」、と。
私は、確かに現世には生きていますが私の魂はあの9歳時の臨死体験の際から祖父と弟の隣に置いてきているような気がしています。それとも、あの時に魂だけが弟と入れ替わり、ここに居る私は弟なのかも知れないと思う事がよくあります。
あの若い頃、自分の存在を探して山に篭もったように、「母に生命を返す時」を書くことで自分が与えられた2つ目の命が誰のものかを今も探しているのかも知れません。


