母に生命を返す時:老いゆく母を見つめて・・・介護同居記録
2003年3月から同居を始めた母は現在95歳。要介護度4の母との同居・介護の日々の暮らしの模様を詩に綴り、曲を付けています。
プロフィール
Author:高橋尚宏
最近の記事
♪:同居記録:23 (10/10)
♪:同居記録:22 (10/09)
♪:同居記録:21 (10/08)
♪:同居記録:20 (10/07)
♪:同居記録:19 (10/06)
♪:同居記録:18 (10/05)
♪:同居記録:17 (10/04)
同居記録:16 (10/03)
♪:同居記録:15 (10/02)
♪:同居記録:14 (10/01)
♪:同居記録:13 (09/30)
♪:同居記録:12 (09/29)
同居記録:11 (09/28)
同居記録:10 (09/27)
同居記録:9 (09/26)
同居記録:8 (09/25)
同居記録:7 (09/24)
同居記録:6 (09/23)
同居記録:5 (09/22)
同居記録:4 (09/21)
同居記録:3 (09/20)
同居記録:2 (09/19)
同居記録:1 (09/18)
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
2008年09月 (13)
2008年10月 (10)
カテゴリー
介護・音楽日記 (23)
音楽 (0)
未分類 (0)
ブロとも申請フォーム
この人とブロともになる
フリーエリア
フリーエリア
フリーエリア
ホームページ
アフィリエイト
レンタルサーバー
FC2ブログ
2008-09-18-Thu
同居記録:1
♪:命の重さ 2008.9
♪:心の色 2008.9
♪:蜃気楼 2008.8
♪:母の童歌 2008.5
同居記録:1
☆私の人生を変えた姉からの一本の電話。
「尚宏、もう今の私の状況では母を世話するのが無理。母には母の望む通りに佐世保の実家に帰って貰って独り住まいをさせるつもり。どんな形であれ母には自分の拘る家で自分の好きなように生きて最期を迎えて貰うのも母の人生かも知れない・・」。姉は決して本心ではないのでしょうが、そのような言葉を並べては自分の気持ちを繕っていました。今を遡ること5年半前の2003年の3月中旬の事でした。
私の母、高橋ツヤ(旧姓・河内ツヤ)は大正2年2月、長崎県北松浦郡佐々の生まれです。母は幼い頃から心臓が弱くて尋常小学校時代の体育の時間などではいつも独りだけ校庭の草毟り役だったとか。先生からは、「河内さん、日光を一杯に浴びて健康になるのですよ」、といつも励まされていたと母は言います。
母が心臓発作で倒れる姿は私達兄弟の幼い頃にはよく見かけたものでした。佐賀県伊万里市東山代町に家族が暮らした頃の私の記憶でも44〜46歳の頃の母が台所の土間で頻繁に倒れ、気付けになるからと銀色の森下仁丹を噛んでいた姿が残っている程です。やがて、石油へのエネルギー転換が進み、例に漏れず佐賀県で経営していた東山代炭鉱が閉山し、父は長崎県の佐世保市で銀行勤めをしますが、年老いてからの再就職です。その苦労する父を必死に支える暮らしの中で長女の紘子が嫁ぎ、そして長男の利彦も家庭を持ち、三男の私も熊本に居を構えてと子供達が次々と家を離れていきます。そして、明治35年生まれの夫(利三郎が)没したのが75歳。母が64歳の時でした。
☆夫没後の約23年間もの独居。
夫の没後、母は文字通りの独居暮しをするのですが、話し相手も少なく、食事にも気を配る事もなくなり、張合いのない生活が母の身体を少しづつ衰弱させていったのだろうと思います。65歳頃からの母は左脇の下付近に痛みを覚えるようになりますが、今思えば心臓が危険信号を発し始めていたのでした。
思えば母の母親である河内ライ(旧姓・濱野ライ)も循環系である腎臓病の為に48歳の若さでこの世を去っていますから、私の母も体質的に循環系の弱さを受継いでいたのです。
この母の状態を気遣う長男夫婦が同じ佐世保市内に住んでいて、母との同居を何度も試みるのですが気丈夫な母は具合が良くなったからと暫くすると独居生活に拘って自宅に戻ります。しかし、今度は戻った自宅の庭先で転倒しては肋骨を骨折し再び長男の世話になり、こうして心臓発作に加えて足の指を曲げたり折ったりを日常的に繰返すようになっていきます。こうした日常の繰返しの中、私達は母には既に左股関節の経年疲労による骨折がある事を知ります。また、既に母は75歳を越えたばかりの頃には高血圧による眼底出血を止める手術で左目の視力を失っており、更に80代半ばには当時、大牟田営業所に勤務する兄夫婦の所へ滞在しながら白内障の手術も受けました。この為に遠近感や左右のバランス感覚も不自由になっていて、このような様々な身体機能の不具合が重なっては戻った自宅で転倒を繰返していて相当に辛い日常だったはずなのです。
しかし、気丈夫な母の言動に兄夫婦も次第に精神的に滅入るようになってきたのでしょうか、「我が思い母に通じず」、と思い始めたのでしょうか、そうした兄の困窮に長崎に嫁いでいる姉も母のお世話をしようとしますが、母が兄や姉の元で過ごすのは長くて3ヶ月が限度。多くは3日から2週間程度の滞在に過ぎなかったようです。
☆多くのお年寄りは老いてくると不安感から電話魔になるという。配慮次第では長く居着いてくれたはず。
2003年3月末の母との同居開始以来、私達夫婦が一貫して心掛けている事があります。それは長崎の姉夫婦、佐世保に住む兄夫婦や甥や姪に母の幼友達などとの電話や手紙の交換です。長崎に住む長女の紘子とは毎日の電話での遣り取りがあります。実は、これが熊本の私の家に母は5年半も居る理由の一つではないかと思います。
母が姉や兄の所を転々としていた頃にはこれがなかったのです。介護する兄や姉の側の心の余裕のなさが母を実家へ戻していたような気がしないでもありません。何故なら、母は姉や兄の家から実家に戻る度に私や甥の所へ連日のように電話を掛けていたのでした。
「母ちゃん、今日も尚宏に電話してみようか。義ちゃんは元気かしらね」、と母に受話器を渡す余裕が姉や兄にはなかったのだろうと思います。
お年寄りにはそれなりの生活パターンがあります。同居によってこの生活パターンを崩されたお年寄りは、「ここから早く逃げ出したい、住み慣れた家に帰りたい」、と言い出すのではないかと思います。食事内容しかり、TV番組しかり・・、好きなように思いつくところに電話さえ掛けられない、というのは辛いものです。私が、「同居と介護は違う」、と言うのはこれが理由であり、「介護をする」、と決心した以上は介護する側は一つ二つと自分達の暮らしの中から棄てるものがなければお年寄りの座る場所は見つからないからです。
☆母の生活を殆ど知らない、その頃の私がやれた事。
この頃の私は母が実家で独居生活に戻る度、料理好きな母の為、その延長として健康を取戻して貰おうと醤油や味噌、蜂蜜に漬込んだニンニクや昆布に煮干し、椎茸、木耳など、様々な乾燥食品をミキサーで粉末にしてサプリメントと一緒に送っていた事を思い出します。乾物は健康にいい成分に溢れていますが固いのがネック。そこで私は粉末にして送れば料理好きな母の事だからアレンジして使って食べてくれるはずだと思ったのです。辛うじて粉末のお茶が流通しだした頃で、昆布や椎茸、木耳などを粉末にした商品なんて当時はありませんでした。
☆「元来が気丈夫で頑固な母」、認知症に対する理解が不足し、子供達がまともに反応していた。
母の近くに住む長男が最初に同居を考えるようになったのは母の心臓発作が切っ掛けでした。やがて、転倒を繰返しては骨折さえするようになっていくという母の変化がありました。この頃の姉や兄にはまだ人間の脳の軟化や認知症という言葉への関心はたいして深くはなかったと思われます。しかし、この当時の母の言動を今に思い起こせば母には既に認知が出ていたのだと思われるのです。
元来が1円でもお釣りが不足している事に気づいた時などには買物をしたスーパーまでわざわざ受取りにいくほどの性格がきちっとした人だったが為、母本来の性格から出る言動なのか認知があっての言動なのかの区別を周囲が理解できない状態になっていたのではないかと思われます。
例えば、ものが無くなる、置いていた財布の中からお金が少しだけ消えている。だから計算が合わない、もしかしたら留守中に盗人が家に入っている・・、と母はよく言っていました。こういう話は認知症のご老人と暮らす家庭では日常的に聞かれる言葉で認知症の初期症状と言われますが、これを単なるお年寄りの物忘れや勘違いだと周囲の家族が勘違いしてしまうケースが多いのです。兄夫婦も姉夫婦もその事を考える余裕がなかったのです。
☆戦後の物資不足の時代を生きてきた母の言葉ではないか。
敗戦という苦しい時代を経験された日本のお年寄り達には戦後の生活物資不足の頃の記憶が鮮烈に残っていて、辛抱して築きあげ蓄えたものに対する拘りが常に残っていて無駄や贅沢を非常に嫌います。だから、あるべき所にものがない、合うはずの数字が合わないとなると周囲の誰かが、「持って行った、使った」、と感じても仕方がないのです。
戦後に住んだ家の庭にあったいい香りを出す山椒の木が一晩の内に盗まれていたり。飼っていた犬を綱から放したばかりに近所の大人に食べられていた・・、実に、母はそんな時代に生きてきたのです。
このようにモノがなくなる、嫁を盗人扱いするなどは介護家庭でなくともよく聞かれる事ですが、例に漏れずに兄の所でもこの問題が起きていたようですし、母が若い頃から一番信頼していた姉の所でも大なり小なり似たような問題はあったはずでした。当然、この問題は母が私の所へ来た際にも起きましたし、でも、兄夫婦も姉夫婦もこれに耐える事が出来なかったようでした。このどこにでもある問題をクリアできない限り介護同居は無理だと思うのです。
☆要するに兄夫婦、姉夫婦が母との同居にギブアップ
日常的なこのような事もありながら長女や長男との同居。そして、自宅に戻っての独居を繰返す期間が3年くらい続いた2003年3月。当時、母を再び、三度と長崎に迎えて同居していた長女の紘子から熊本に住む次男の私の元へと前述のような内容の電話が掛かってきたのでした。
換言すれば、母のそのような厳しい言動に対し、兄は、「責められる嫁が可哀想過ぎる」、と思い。姉にしても出産の為に一時帰郷してくる娘の為にもよくない、自身にも一過性とは言えど脳動脈瘤の術後の痛みがあって、母とは一緒に暮らせなくなったという事でした。もう、長男も受容れないだろうと・、いう判断です。
☆2008年6月現在でさえ、「私は誰の世話にもならずに生きていける」、と言う母・・。
確かに、母自身は、「あれが無くなった、これはこうじゃなかった」、以外にも、「私は誰の世話にもならずに生きていける」、と気丈夫な言葉を繰返して言っていたのだと思います。
これは95歳になり、認知が進んで要介護度4になった2008年6月現在の母であっても不機嫌な日には必ず発する言葉なんです。車椅子生活であってさえ、「今日はデイには歩いて行った」、と言うくらいですから、母は現状をよく理解できていないんです。
2003年3月の段階での母は心臓の不安定に加えて高血圧、左股関節には何本もの亀裂が入り、長崎では人工骨を勧められる程の身体になっていた母だったのですが、当の本人は自分の身体が思うように動かない。持病の心臓の調子が更に悪くなっているようで麻酔の適量が分からないから人工関節の手術さえ受けられない。だから、周囲の子供達が心配して同居を勧めているんだ、という事に対しての認識が殆どない・・。姉から私への電話はそのような事を次々に語っていました。この時の母の状態こそ、まさしく認知症の典型的な症状だったのだろうとつくづく思います。
☆老いた母に言葉で自分を受容れさせるのは無理。
姉や兄達は、「気丈夫な母」、という印象を強く持ち過ぎ、その事が自分達の認識を遅らせていたのだと思います。実は、「母よ、いつまでも母のままであって欲しい・・」、と強烈に願っていたのは兄であり、姉自身だったのだろうと思います。
自分が母を受容れるのではなく、「母に自分を受容れて欲しい」、と思う事自体が間違っていたのかも知れません。
母と長崎で3ヶ月を同居し、心臓疾患、股関節骨折、左目失明・・こうした母の最新の身体の状態を一番理解している姉が何故?と私は思いました。ショートステイで様子をみるとか、病名なんていつでも幾つでも付けられる母の身体ですから短期入院をさせる事だって可能だった時期のはずでした。その母を実家に戻して独居させるなど、私には考えられない事でした。
「私まで頭が痛くなった。長男が言っていた意味がよく分かる。兎も角、母を実家に置いて帰るから心配なら引取りに来なさい」、と、そんな感じにだって受取れました。何故なら、「もう、嫁が可哀想で堪らん」、という兄の同居断念の言葉を数ヶ月前に聞いていた姉です。その後のこうした事態ですから、「ああ、兄に続いて姉もついにギブアップか・・」、という印象を持つのは不自然ではありませんでした。
☆あの日、嫁の目を盗むようにして帰郷した私。
この2003年3月、私が佐世保の実家に母を迎えに行かなかったとしたら、多分、母は間違いなくあのままで逝っていただろうと思います。恐らく、姉も兄もそこまで覚悟していたのだと思います。
私は母との同居が6年目を迎えたからこそ言えますが、あの2003年3月26日、私はある種の憤慨と絶望を感じながら誰にも相談できず、何の準備もできず、半ば嫁の目を盗むようにして母を迎えに佐世保へ向かったのでした。家族って何だ、兄弟って何だ、覚悟って何だ・・、と。私の兄弟は[認知症]が分かっていなかったのです。それまでの約3年の間、姉と兄は母との同居に関し、「熊本の尚宏には無理だ」、と決め付け蚊帳の外に置いていながら、兄と姉の手に負えなくなった途端、心身共に最悪の状態の母を佐世保の実家に放り込んだようにしか思えてなりませんでした。
介護・音楽日記
|
|
BLOG TOP
|
ブログ内検索
RSSフィード
最新記事のRSS
最新コメントのRSS
最新トラックバックのRSS
リンク
母に生命を返す時
母に生命を返す時
母に生命を返す時:介護・同居記録
管理者ページ
このブログをリンクに追加する
By FC2ブログ
ブログやるならFC2ブログ