♪:同居記録:1
老いゆく母を見つめて・・・
母に生命を返す時

母・高橋ツヤ(旧姓・河内ツヤ)は大正2年に長崎県北松浦郡佐々の地に男2人、女3人の末っ子と生まれ、2009年2月26日には96歳を迎えました。鹿町炭鉱の創業者である濱野冶八の姪として生まれた母は嫁いだ後も濱野家から炭鉱経営を引継いだ河内家の影響を受け、過す事になります。
夫(高橋利三郎)が没した後の母は子供との同居など眼中になく、佐世保の地で23年間もの独居生活を続けます。
独居を始めて暫くの間は実姉の訪問を受け、訪ねては歌が浦に暮した頃の幼い記憶に浸ったり・古い友人達とは途切れていた親交を復活させたりして自分なりに喜びを見出していたようです。しかし、やがてはそうした方々が次々と先逝たれていく中、母自身にも持病の心臓の悪化が追い討ちをかけるようになります。
最初は長男夫婦が同居を試みますが母は全く受け入れません。そして長崎に嫁いでいた長女の元では比較的に平穏な暮らしが出来ていたのですが、この長女夫婦との同居が3ヶ月目になった頃に長女が体調不良に陥るのです。更に、この長女の元には嫁いだ娘が出産帰郷をするという事情が重なるのです。
この2003年当時の母は要介護度が2。既に左股関節骨折、眼底出血の後遺症で左目が失明していた母ですが、既に2009年現在では要介護度が4。
この日記は熊本の地で2003年3月29日から始まった老いた母と次男(末っ子)の私とその嫁、不定期に長崎からやって来る長女との暮らし模様を綴っています。
老いゆく母を見つめて・・、全国の介護家庭の皆様に私達夫婦の在宅介護の模様を伝える事で多少なりとも心安らかになる場面があれば、と思います。


♪:兄ちゃま
母に生命を返す時

母・高橋ツヤ(旧姓・河内ツヤ)は大正2年に長崎県北松浦郡佐々の地に男2人、女3人の末っ子と生まれ、2009年2月26日には96歳を迎えました。鹿町炭鉱の創業者である濱野冶八の姪として生まれた母は嫁いだ後も濱野家から炭鉱経営を引継いだ河内家の影響を受け、過す事になります。
夫(高橋利三郎)が没した後の母は子供との同居など眼中になく、佐世保の地で23年間もの独居生活を続けます。
独居を始めて暫くの間は実姉の訪問を受け、訪ねては歌が浦に暮した頃の幼い記憶に浸ったり・古い友人達とは途切れていた親交を復活させたりして自分なりに喜びを見出していたようです。しかし、やがてはそうした方々が次々と先逝たれていく中、母自身にも持病の心臓の悪化が追い討ちをかけるようになります。
最初は長男夫婦が同居を試みますが母は全く受け入れません。そして長崎に嫁いでいた長女の元では比較的に平穏な暮らしが出来ていたのですが、この長女夫婦との同居が3ヶ月目になった頃に長女が体調不良に陥るのです。更に、この長女の元には嫁いだ娘が出産帰郷をするという事情が重なるのです。
この2003年当時の母は要介護度が2。既に左股関節骨折、眼底出血の後遺症で左目が失明していた母ですが、既に2009年現在では要介護度が4。
この日記は熊本の地で2003年3月29日から始まった老いた母と次男(末っ子)の私とその嫁、不定期に長崎からやって来る長女との暮らし模様を綴っています。
老いゆく母を見つめて・・、全国の介護家庭の皆様に私達夫婦の在宅介護の模様を伝える事で多少なりとも心安らかになる場面があれば、と思います。


♪:兄ちゃま
♪:同居記録:22
♪:Try to Remember
☆音楽どころではない、リハビリに集中だ。当分は作品作りをやめよう
母が2004年の2月26日にデイ通いをやめて以来、既に3ヶ月を経過していました。しかし、この3ヶ月間は決して無駄ではありませんでした。母はひたすらに立田山自然公園での私との歩行訓練に励んでは劇的な機能回復を見せたのです。多分、この時期の体力強化が現在の母の気力に繋がっているような気がするんです。
杖をつき、左手は私の腰のベルトを握りさえすれば、という条件つきではありますが、1.2Km程度を歩いた事もあります。また、途中の山道に置き忘れてきたタオルを取りに戻っては2.0Km以上を歩いた事も・・。休みながらではありますが、日によっては4km近くを歩いた事さえありました。この立田山自然公園は母が大好きな場所になっていきます。
「これはいい・・まだまだ、頑張れる」。この後の私は一切の詩作も曲作りも止め、母の更なるリハビリに集中する事にしたのです。
認知が進むのは仕方がない・・。幼い頃の記憶に従って思考して言葉を発したり行動をとろうとするのが認知症の特徴であれば、その認知の症状を逆利用してリハビリしてみようと思ったのです。
母の記憶の多くを支配しているのは場所で言えば深江や歌が浦での暮らし。人物であれば幼い頃の母の手を握っては優しく諭してくれた次男のイサム兄さんです。
「意識のすりこみ」、というのでしょうか。鍼に灸、マッサージに散歩と週の多く、一日の時間の多くを私と過ごす事が多くなった母は事ある毎に私の事を「イサムさん」、「おじちゃん」、と呼んでは私とイサムさんを勘違いするケースが増えていました。私は母がそう思う事で心が安らぐのならそれで構わないじゃないか、と思うようにしました。
「それは違う、あんたの間違いで俺はあんたの息子の尚宏だよ」、と幾ら修正しても何の意味もないのです。分からなかった事を次々と覚えていく子供の成長現象ではありませんからね。認知とは日常から現在が欠落していく過程を言うんです。少なくともリハビリの時間だけはイサムさんなり切ろうと思いました。そうでないと歩いてくれない事があったからです。
☆2004年5月の頃。 母が台所で包丁を握った日
この2004年、デイ通いを止めていた母ですが、この間のリハビリの合間に訪ねた春の水前寺公園の桜、大津の清正公公道のツツジにも感嘆の声を上げていました。
一方、嫁は熊本城の桜や夏には米どころの菊池を案内し、名産の米を買って帰ってきました。合志町では私は公園に実った山桃の実をこっそりと取って食べた事もあります。
「ほー、山桃が珍しいね。誰も見ちゃおらんよ。ホホ、・・・採らんね」、と母が言うからです。
やがて、母は再び僅かな介助だけで独りで入浴が出来るように迄になり、私がパソコンなどに集中してしまって母の観察がおろそかになった時など、ハッと気づけば母が台所でフラフラと何かをしていそうな姿を見てドキッとする事が目立つようになります。
母はガス器具の操作が分からないだけで、実際には茄子の皮を綺麗に剥いて切り揃えていた事もありました。
「尚宏・、魚の煮付けにはおナスが合うよ」、って。この頃の母には包丁を使わせても安心できる日があったのです。
ただ、運動能力の回復は同時に生活上の新たな危険を呼び込む事でもあったのです。日常的に目が離せなくなっていき、私達夫婦のどちらかが常に母を監視するという・・、仕事も何もあったものではないという・・、大変な時期でした。
☆2004年6月の頃:歩行訓練は続く・・。
母の歩行能力の回復は驚異的でした。母を立たせ、その場の介助を離れてカメラを構えても心配がないくらい・。ただ、歩行の際の足の上がり、つまり、地面から足の裏までの高さがなかなか上がりません。だから、ちょっとした小石や室内の段差ではつまづく事が予想され、この点が非常に不安でした。歩行能力が上がると母は、「早く歩こう」、とします。早く歩こうとすると地面からの足の高さが低くなりがちだから危険なんです。
「今日は車椅子は要らんよ」、と母が自信をつけ始めた頃でした。ただ、一旦、芝生地に腰を降ろすと自力では立てません。
でも、実際の事を言えば、この頃の私・・、まるで母の身体の一部になってしまったかのよう・・。歩く事に関し、常に母の左側に私の存在があって母は初めて勇気を持って歩けていたのです。杖さえ使えば歩けるのですが、一旦、身体が左側に傾いたら最後、そのままグラッと・・。
劇的に回復したとは言え、その程度ではあったのです。
☆音楽どころではない、リハビリに集中だ。当分は作品作りをやめよう
母が2004年の2月26日にデイ通いをやめて以来、既に3ヶ月を経過していました。しかし、この3ヶ月間は決して無駄ではありませんでした。母はひたすらに立田山自然公園での私との歩行訓練に励んでは劇的な機能回復を見せたのです。多分、この時期の体力強化が現在の母の気力に繋がっているような気がするんです。
杖をつき、左手は私の腰のベルトを握りさえすれば、という条件つきではありますが、1.2Km程度を歩いた事もあります。また、途中の山道に置き忘れてきたタオルを取りに戻っては2.0Km以上を歩いた事も・・。休みながらではありますが、日によっては4km近くを歩いた事さえありました。この立田山自然公園は母が大好きな場所になっていきます。
「これはいい・・まだまだ、頑張れる」。この後の私は一切の詩作も曲作りも止め、母の更なるリハビリに集中する事にしたのです。
認知が進むのは仕方がない・・。幼い頃の記憶に従って思考して言葉を発したり行動をとろうとするのが認知症の特徴であれば、その認知の症状を逆利用してリハビリしてみようと思ったのです。
母の記憶の多くを支配しているのは場所で言えば深江や歌が浦での暮らし。人物であれば幼い頃の母の手を握っては優しく諭してくれた次男のイサム兄さんです。
「意識のすりこみ」、というのでしょうか。鍼に灸、マッサージに散歩と週の多く、一日の時間の多くを私と過ごす事が多くなった母は事ある毎に私の事を「イサムさん」、「おじちゃん」、と呼んでは私とイサムさんを勘違いするケースが増えていました。私は母がそう思う事で心が安らぐのならそれで構わないじゃないか、と思うようにしました。
「それは違う、あんたの間違いで俺はあんたの息子の尚宏だよ」、と幾ら修正しても何の意味もないのです。分からなかった事を次々と覚えていく子供の成長現象ではありませんからね。認知とは日常から現在が欠落していく過程を言うんです。少なくともリハビリの時間だけはイサムさんなり切ろうと思いました。そうでないと歩いてくれない事があったからです。
☆2004年5月の頃。 母が台所で包丁を握った日
この2004年、デイ通いを止めていた母ですが、この間のリハビリの合間に訪ねた春の水前寺公園の桜、大津の清正公公道のツツジにも感嘆の声を上げていました。
一方、嫁は熊本城の桜や夏には米どころの菊池を案内し、名産の米を買って帰ってきました。合志町では私は公園に実った山桃の実をこっそりと取って食べた事もあります。
「ほー、山桃が珍しいね。誰も見ちゃおらんよ。ホホ、・・・採らんね」、と母が言うからです。
やがて、母は再び僅かな介助だけで独りで入浴が出来るように迄になり、私がパソコンなどに集中してしまって母の観察がおろそかになった時など、ハッと気づけば母が台所でフラフラと何かをしていそうな姿を見てドキッとする事が目立つようになります。
母はガス器具の操作が分からないだけで、実際には茄子の皮を綺麗に剥いて切り揃えていた事もありました。
「尚宏・、魚の煮付けにはおナスが合うよ」、って。この頃の母には包丁を使わせても安心できる日があったのです。
ただ、運動能力の回復は同時に生活上の新たな危険を呼び込む事でもあったのです。日常的に目が離せなくなっていき、私達夫婦のどちらかが常に母を監視するという・・、仕事も何もあったものではないという・・、大変な時期でした。
☆2004年6月の頃:歩行訓練は続く・・。
母の歩行能力の回復は驚異的でした。母を立たせ、その場の介助を離れてカメラを構えても心配がないくらい・。ただ、歩行の際の足の上がり、つまり、地面から足の裏までの高さがなかなか上がりません。だから、ちょっとした小石や室内の段差ではつまづく事が予想され、この点が非常に不安でした。歩行能力が上がると母は、「早く歩こう」、とします。早く歩こうとすると地面からの足の高さが低くなりがちだから危険なんです。
「今日は車椅子は要らんよ」、と母が自信をつけ始めた頃でした。ただ、一旦、芝生地に腰を降ろすと自力では立てません。
でも、実際の事を言えば、この頃の私・・、まるで母の身体の一部になってしまったかのよう・・。歩く事に関し、常に母の左側に私の存在があって母は初めて勇気を持って歩けていたのです。杖さえ使えば歩けるのですが、一旦、身体が左側に傾いたら最後、そのままグラッと・・。
劇的に回復したとは言え、その程度ではあったのです。
♪:同居記録:23
♪:飛んでけ悲しみ
☆2004年10月の頃。8ヶ月振りのデイ通い再開:今度は毎日、2つのデイ施設へ。
この年の夏も過ぎ、日常に自信をつけた母は生甲斐を蘇らせたように2004年10月12日からは再び【Yの家】へ通うようになります。実に、2004年2月26日以来の約8ヶ月振りのデイへの復帰でした。しかも今回のデイ通いは以前のように週1回ではなく、毎日の通所となりました。
そして、この頃にK苑という広告看板が私の目に入ったのです。いつもの買い物コースにあったのですが、不思議に見落としていたのか、何も感じなかったのか・・。
でも、この時には私の中で不思議なイメージが湧いていたのです。それは母が羽ばたく鶴の背中に乗って笑っている姿でした。私は、「あっ、ここだ」、と思ったのを記憶しています。
帰宅した私は、「母と一緒にK苑に見学に行ってみようか?」、と嫁に相談した事から、トントン拍子に話が進展し、11月5日からの母はこのデイ施設の【K】へも行くようになり、曜日別に2箇所のデイ施設へ出掛けるまでになったのです。
このデイは9:00〜16:00の時間帯。私はようやく通常モードに近い勤務へと復帰しできたのでした。
☆お得意のハモニカを披露して人気者に
K施設での母はお得意のハモニカを披露して人気者になっていた模様ですが、ここでもテーブルの上に置いていたハモニカを誰かが勝手に吹いたからとゴミ箱に棄てて帰ったりします。
「もう、K施設には行かない・・」、と言出したり、「でも、あそこのご飯は美味しいからね・・」、と思い直したり。
しかし、2箇所ものデイ施設に通える程に元気になった事に対し、その日常の変化に対して母は母なりに喜びと自信が湧いていたのだと思います。それとも、「行くのは嫌だ」、と言い始めたらイサムおじちゃんに叱られるとでも思っていたのかも知れません・・。
ハモニカを吹く事で母の心肺能力が高まり、メロデイを思うだけで脳も活性化されるのでしょうね。顔色も皮膚の艶も次第に良くなるようでした。
☆2005年2月。大変!。母が風呂で眠り、浴槽に浮いていた・
デイ施設への通所にもすっかり慣れて生活のパターンが身についた母は無事に2005年を迎えます。
家ではハモニカを吹いたり、三味線を取り出して弾き始めたり・・、非常に自主性があり、陽気で、母の日常が一番充実していた時期ではないかと思います。
しかし、何故か92歳の誕生日直前の2月23日から母の言動が突然におかしくなるのです。朝の食事中に居眠りを始めたり、お酒に酔ったかのように言葉の呂律が回らなくなり始め、翌2月24日には入浴中に眠ってしまって嫁が気づいた時には浴槽に浮いているという事件を起こしてしまったのです。
嫁は、「お義母さん、お湯から上がりましょうか?」、と尋ねたのですが、「まだ、いいよ」、と母は返事する一方で浴槽の中で眠り始めたようでした。これは嫁のせいではありません。母の事を一番理解して共にする時間も長いはずの私が予知しなければいけない事件。全く私の不注意で起きた事でした。
母は夜中に国立病院に搬送されCTでの検査の結果、脳に多少の出血が見られるが以前からのものとも考えられる。様子をみたいという事で血圧も落着いた早朝には帰宅しました。しかし、気になる事があった私は帰宅早々、母の服用している薬を調べました。
そして、驚いたのは数日前の近所のクリニックの定期診察で多少の血圧上昇が見られるという事で降圧剤の量が倍に増やされていたのです。
アダラートという降圧剤の一日服用量が15mgから30mgに増量されていて、これが食事中や風呂で眠ったり言葉の呂律が回らなくなったり、風呂場での判断力が鈍った原因だったとは断言しませんが、インターネットの医学書の文献などで調べた限りでは降圧剤の副作用としては、「脱力感や判断力の低下」、は十分にあり得るとの事でした。
☆母は護られ、生かされている
国立病院から自宅に帰ってからの母はひたすらに眠り続けました。風邪をひいている訳でもないのに顔と限らず、全身が赤くなるほどに高熱も続き血圧も脈拍も再び不安定になりました。
私は両手に氷嚢を持ち、昏昏と眠り続ける母の全身を冷やしました。そして、私は自分の額を母の頭に当てて抱え込み、母の手を私の胸にあて、「神様、俺と母の命を交換してくれ・・頼むよ。頼むよ」、と何度も呟いていました。
嫁は、「あの時はソバで見ていて気持ちが悪かった」、と言いますが、眠り続けて1週間目に入った頃の夕方でした。母はハッキリとした口調で、「尚宏・・、どこに居るのね?・・、お腹が空いたよ」、と自分の部屋で叫んでいたんです。
この時、私は不思議に母の出身の濱野一族の力を感じました。何かの力が母に働いているような気がしたのです。私が幼い頃に何度となく感じた不思議な力でした。
「母は誰かに護られ、生かされている・・」。私はそう思ったのです。
この2005年3月末で母の熊本滞在が丸2年を過ぎるのでした。
☆2004年10月の頃。8ヶ月振りのデイ通い再開:今度は毎日、2つのデイ施設へ。
この年の夏も過ぎ、日常に自信をつけた母は生甲斐を蘇らせたように2004年10月12日からは再び【Yの家】へ通うようになります。実に、2004年2月26日以来の約8ヶ月振りのデイへの復帰でした。しかも今回のデイ通いは以前のように週1回ではなく、毎日の通所となりました。
そして、この頃にK苑という広告看板が私の目に入ったのです。いつもの買い物コースにあったのですが、不思議に見落としていたのか、何も感じなかったのか・・。
でも、この時には私の中で不思議なイメージが湧いていたのです。それは母が羽ばたく鶴の背中に乗って笑っている姿でした。私は、「あっ、ここだ」、と思ったのを記憶しています。
帰宅した私は、「母と一緒にK苑に見学に行ってみようか?」、と嫁に相談した事から、トントン拍子に話が進展し、11月5日からの母はこのデイ施設の【K】へも行くようになり、曜日別に2箇所のデイ施設へ出掛けるまでになったのです。
このデイは9:00〜16:00の時間帯。私はようやく通常モードに近い勤務へと復帰しできたのでした。
☆お得意のハモニカを披露して人気者に
K施設での母はお得意のハモニカを披露して人気者になっていた模様ですが、ここでもテーブルの上に置いていたハモニカを誰かが勝手に吹いたからとゴミ箱に棄てて帰ったりします。
「もう、K施設には行かない・・」、と言出したり、「でも、あそこのご飯は美味しいからね・・」、と思い直したり。
しかし、2箇所ものデイ施設に通える程に元気になった事に対し、その日常の変化に対して母は母なりに喜びと自信が湧いていたのだと思います。それとも、「行くのは嫌だ」、と言い始めたらイサムおじちゃんに叱られるとでも思っていたのかも知れません・・。
ハモニカを吹く事で母の心肺能力が高まり、メロデイを思うだけで脳も活性化されるのでしょうね。顔色も皮膚の艶も次第に良くなるようでした。
☆2005年2月。大変!。母が風呂で眠り、浴槽に浮いていた・
デイ施設への通所にもすっかり慣れて生活のパターンが身についた母は無事に2005年を迎えます。
家ではハモニカを吹いたり、三味線を取り出して弾き始めたり・・、非常に自主性があり、陽気で、母の日常が一番充実していた時期ではないかと思います。
しかし、何故か92歳の誕生日直前の2月23日から母の言動が突然におかしくなるのです。朝の食事中に居眠りを始めたり、お酒に酔ったかのように言葉の呂律が回らなくなり始め、翌2月24日には入浴中に眠ってしまって嫁が気づいた時には浴槽に浮いているという事件を起こしてしまったのです。
嫁は、「お義母さん、お湯から上がりましょうか?」、と尋ねたのですが、「まだ、いいよ」、と母は返事する一方で浴槽の中で眠り始めたようでした。これは嫁のせいではありません。母の事を一番理解して共にする時間も長いはずの私が予知しなければいけない事件。全く私の不注意で起きた事でした。
母は夜中に国立病院に搬送されCTでの検査の結果、脳に多少の出血が見られるが以前からのものとも考えられる。様子をみたいという事で血圧も落着いた早朝には帰宅しました。しかし、気になる事があった私は帰宅早々、母の服用している薬を調べました。
そして、驚いたのは数日前の近所のクリニックの定期診察で多少の血圧上昇が見られるという事で降圧剤の量が倍に増やされていたのです。
アダラートという降圧剤の一日服用量が15mgから30mgに増量されていて、これが食事中や風呂で眠ったり言葉の呂律が回らなくなったり、風呂場での判断力が鈍った原因だったとは断言しませんが、インターネットの医学書の文献などで調べた限りでは降圧剤の副作用としては、「脱力感や判断力の低下」、は十分にあり得るとの事でした。
☆母は護られ、生かされている
国立病院から自宅に帰ってからの母はひたすらに眠り続けました。風邪をひいている訳でもないのに顔と限らず、全身が赤くなるほどに高熱も続き血圧も脈拍も再び不安定になりました。
私は両手に氷嚢を持ち、昏昏と眠り続ける母の全身を冷やしました。そして、私は自分の額を母の頭に当てて抱え込み、母の手を私の胸にあて、「神様、俺と母の命を交換してくれ・・頼むよ。頼むよ」、と何度も呟いていました。
嫁は、「あの時はソバで見ていて気持ちが悪かった」、と言いますが、眠り続けて1週間目に入った頃の夕方でした。母はハッキリとした口調で、「尚宏・・、どこに居るのね?・・、お腹が空いたよ」、と自分の部屋で叫んでいたんです。
この時、私は不思議に母の出身の濱野一族の力を感じました。何かの力が母に働いているような気がしたのです。私が幼い頃に何度となく感じた不思議な力でした。
「母は誰かに護られ、生かされている・・」。私はそう思ったのです。
この2005年3月末で母の熊本滞在が丸2年を過ぎるのでした。



