♪:同居記録:1

   老いゆく母を見つめて・・・
       母に生命を返す時

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母・高橋ツヤ(旧姓・河内ツヤ)は大正2年に長崎県北松浦郡佐々の地に男2人、女3人の末っ子と生まれ、2009年2月26日には96歳を迎えました。鹿町炭鉱の創業者である濱野冶八の姪として生まれた母は嫁いだ後も濱野家から炭鉱経営を引継いだ河内家の影響を受け、過す事になります。

夫(高橋利三郎)が没した後の母は子供との同居など眼中になく、佐世保の地で23年間もの独居生活を続けます。

独居を始めて暫くの間は実姉の訪問を受け、訪ねては歌が浦に暮した頃の幼い記憶に浸ったり・古い友人達とは途切れていた親交を復活させたりして自分なりに喜びを見出していたようです。しかし、やがてはそうした方々が次々と先逝たれていく中、母自身にも持病の心臓の悪化が追い討ちをかけるようになります。

最初は長男夫婦が同居を試みますが母は全く受け入れません。そして長崎に嫁いでいた長女の元では比較的に平穏な暮らしが出来ていたのですが、この長女夫婦との同居が3ヶ月目になった頃に長女が体調不良に陥るのです。更に、この長女の元には嫁いだ娘が出産帰郷をするという事情が重なるのです。

この2003年当時の母は要介護度が2。既に左股関節骨折、眼底出血の後遺症で左目が失明していた母ですが、既に2009年現在では要介護度が4。

この日記は熊本の地で2003年3月29日から始まった老いた母と次男(末っ子)の私とその嫁、不定期に長崎からやって来る長女との暮らし模様を綴っています。

老いゆく母を見つめて・・、全国の介護家庭の皆様に私達夫婦の在宅介護の模様を伝える事で多少なりとも心安らかになる場面があれば、と思います。

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♪:兄ちゃま

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☆:私の人生を変えた姉からの一本の電話。

「尚宏、今の私の体調や家庭状況では母を世話し続けるのはもう無理。母には本人の望む通りに佐世保の実家に帰って貰って独り住まいをさせるつもり。どんな形であれ母には自分の拘る家で自分の好きなように生き、そして最期を迎えて貰えたとしても、それも母の人生かも知れない・・」。

姉は決して本心ではないのでしょうが、震える声でそのような言葉を並べては自分の気持ちを繕っていました。今を遡ること約6年半前の2003年3月下旬の事でした。

☆:母・高橋ツヤ(旧姓・河内)。父・高橋利三郎。

私の母、高橋ツヤ(旧姓・河内ツヤ)は大正2年2月26日、長崎県北松浦郡佐々の生まれ。この佐々の地は懐かしい日本の原風景を今に伝える数少ない所。母は幼い頃から心臓が弱くて尋常小学校時代の体育の時間などではいつも独りだけ校庭の草むしり役だったとか・。

「河内さん、日光を一杯に浴びて健康になるのですよ」、と先生からはいつも励まされていたと母は言います。

母・ツヤが心臓発作で倒れる姿は私達兄弟の幼い頃にもよく見かけたものでした。佐賀県伊万里市にに家族が暮らした頃の私の記憶でも44〜45歳の頃の母が台所の土間で頻繁に倒れ、気付けになるからと銀色の小粒の森下仁丹を噛んでいた姿が残っている程。しかし、こんな母でも気丈夫な面があるのでした。

母が嫁いだ相手は元外交官で、当時は宮崎県庁に勤めていた高橋利三郎。父は母との結婚を機に県庁を辞して母方の濱野冶八が創業し、その甥にあたる河内進氏が引継いでいた鹿町炭鉱の経営陣に参加。
佐賀県伊万里市で新たに開発した東山代炭鉱の鉱長として着任します。

☆:黒ダイヤ〜石炭

黒ダイヤと言われた当時の花形産業の炭鉱社会ですが、その実態は荒くれ鉱夫の集団。1番方(イチバンカタ)、2番方、3番方と呼ばれる鉱夫グループが8時間づつ分担して働く24時間の操業体制で、時にその鉱夫達が酒の酔いに任せて私の家に押し掛けて来ることがよくありました。今で言う労使交渉です。
彼らは手に手に先が鋭く尖ったツルハシや斧や鎌などの凶器を持っているんです。しかし、父は彼らを前に腕を組んで座り、必要最低限の言葉しか発しません。今にも飛び掛ってきそうな勢いなんですが父は立ち上がらずに座っているんです。

父の身体は大きくて、徴兵検査の際に軍服が着れない体格だった故にアメリカ軍が本土上陸して来た際を想定した騎馬兵要員になったほど。戦争当時の軍服はすべて同じサイズだったからです。
こんな父でしたから自分が立ち上がったら最後、鉱夫たちが一斉に飛び掛ることを察知し、腕を組んでは自分の脇の下で拳を握り締めていたのではないかと思うのです。

こんな時、心臓が悪いとは言え、気丈夫な母は父と彼らの間に割って入り、「主人を殺す前に私を殺してその度胸を主人に見せてみなさい!」、と鉱夫達に激しく詰め寄っては彼らを尻込みさせるのでした。もう、兄も私もブルブルと震えるだけ。私はそのような両親の姿を今も記憶しています。
やがて、全世界的に石炭から石油へのエネルギー転換が進み、例に漏れず父(高橋利三郎)は佐賀県伊万里市で母の実家の河内家から経営を任されていた東山代炭鉱を閉山します。

炭鉱を閉山させた父はその後、長崎県の佐世保市で銀行勤めをしますが、年老いてからの再就職です。母はその苦労する父を必死に支えるますが、やがては長女の紘子が嫁ぎ、そして長男の利彦も家庭を持ち、三男の私も熊本に居を構えてと、子供達は次々と佐世保の実家を離れていきます。そして、明治35年生まれの夫(利三郎が)没したのが75歳。母が64歳の時でした。

☆:夫・利三郎没後の約23年間もの母の独居。

夫・利三郎の没後約23年間。母は文字通りの独居暮しをするのですが、話し相手も少なく、食事にも気を配る事もなくなり、張合いのない生活が母の身体を少しづつ衰弱させていったのだろうと思います。65歳頃からの母は左脇の下付近に痛みを覚えるようになります。今思えば心臓が数度目の危険信号を発し始めていたのでした。
母の母親である河内ライ(旧姓・濱野ライ)も循環系である腎臓病の為に48歳の若さでこの世を去っていますから、私の母も体質的に循環系の弱さを受継いでいたのです。

この当時、母の状態を気遣う長男の利彦夫婦が母と同じ佐世保市内に住んでいて、母との同居を何度も試みるのですが気丈夫な母は心臓の具合が良くなったからと暫くすると独居生活に拘って自宅に戻ります。
しかし、今度は戻った自宅の庭先で転倒しては肋骨を骨折し再び長男の世話になり、こうして心臓発作に加えて足の指を曲げたり折ったり、その身体の不自由さゆえの怪我を日常的に繰返すようになっていくのでした。

こうした日常の繰返しの中、私達3人の兄弟は母には既に左股関節の経年疲労の骨折がある事を知ります。また、既に母は75歳を越えたばかりの頃には高血圧による眼底出血があって、出血を止めるレザー照射の手術で左目の視力を失っております。更に80代半ばには当時には大牟田営業所に勤務する兄夫婦の所へ滞在しながら白内障の手術も受けました。
この為、母には遠近感や左右のバランス感覚の不自由さが襲うようになっていて、この様々な身体機能の不具合が重なっては戻った佐世保の自宅で転倒を繰返し、相当に辛い日常だった事が伺えるのです。

この気丈夫な母の言動に兄夫婦は相当に悩みます。
「我が思い母に通じず」、と思い始めたのでしょうか、そうした兄の困窮を知った長崎に嫁いでいた姉夫婦も母の世話に乗り出しますが、母が兄や姉の元で過ごすのは長くて3ヶ月が限度。多くは3日から2週間程度の滞在に過ぎなかったようです。

兄や姉夫婦が母の独居生活に不安を感じ、その世話にと具体的に動き出したのが母が87歳の頃と聞いています。何れにしても、この頃の母は要介護度1。母自身も姉兄にしても母の老いを今ほどには深く捉える事はなかったのだと思います。

♪:同居記録:2

♪:母の童歌

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☆:失敗、同居と介護は違う。

2003年3月末の母との同居開始以来、私達夫婦が一貫して心掛けている事があります。それは長崎の姉夫婦、佐世保に住む兄夫婦や母の甥である深江に住む河内義統氏や姪。母の故郷の一つの歌が浦に住む幼友達などとの電話や手紙の交換です。

特に長崎の長与に住む長女の紘子とは毎日の電話の遣り取りがあります。
実は、これが熊本の私の家に母が6年も居る事のできた大きな理由の一つではないかと思っています。母が姉や兄の所を転々としていた頃にはこれがなかったのです。

母は兄や姉夫婦の所から自宅に戻る度、私や甥の河内義統氏、向浩巳氏などへ連日のように電話をしていたのでした。少なくとも熊本の私へは一日に2回、3回と電話があった事を思い出します。しかし、当時の私達夫婦は仕事で留守の事多く、その多くには留守電が相手をしていて、そんな時には翌日に私の方から母へ必ず電話をするようにしていました。「あァ、尚宏っ。電話待っとったよ」、と。

認知の始まりは不安感からと言います。
「母ちゃん、今日も熊本の尚宏に電話してみようか。深江の義ちゃんは元気だろうかね」、と母に受話器を渡す心の余裕が姉や兄にはなかったのだろうと思います。

☆:同居・介護には若い側の生活の模様替えが必要。一緒に住むだけではダメ。

母に限らず、お年寄りには必ずそれなりの生活パターンがあります。母の場合、電話で兄弟や子供達への電話だったのだと思いますが、兄や姉との同居の度にこの生活パターンを崩される母は、「ここから早く逃げ出したい、住み慣れた家に帰りたい、熊本の尚宏や深江の義ボー、向の浩巳に電話を・・」、と常に思っていたのではないかと思うのです。

更に、介護と同居の違いでしょうか。介護をする以上、食事内容にTV番組・・、介護者側はそれまでの生活の中の実に様々なモノを変更しなければいけません。その事に配慮が必要です。

☆:介護は命を護る事。

自分の思いつく人に電話を掛け、話せないというのは母には辛いものがあったのではないでしょうか。
単なる同居と介護も違いますよね。「介護をする」、という事は介護する側は、[現在の暮らしプラス介護]であっては駄目。[介護暮らしそのもの]でなければいけません。それにはそれまでの自分達の暮らしの中から一つ、二つと棄て、お年寄りの居場所を確保してあげる事から始める事だと思います。

認知度が進む度に命の重さが増すのが介護。介護生活は確実に変化していきます。少しだけ自分の欲を棄て、常に心のポケットを開けた人にしかできないのが介護生活です。

☆:母の生活の変化を殆ど知らない私。その頃の私がやれた事。

この頃、母の87歳の時に兄夫婦、姉夫婦は母を伴ってこの熊本の地に集まり、私達夫婦を加えて母の米寿祝いをしていて、その時の母は心臓の薬を服用してはいましたが、杖を突きながらも一人歩きができていた事を覚えています。
私の会社の出先の事務所はビルの2Fにあるのですが、その時の母は左側面からの歩行介助があれば自分で杖をついて階段を上がるくらいはできていたんです。

この頃の母は既に兄や姉夫婦の家を行き来しながら、その世話になってはいたのですが、自宅へ戻った際にも兄嫁や姉が野菜や魚・肉類の食料品を冷蔵庫に買い溜めさえしとけば自分で手料理を作っては食べ、夕食後などにはほぼ毎日、この熊本へ電話をしてくれたものでした。

問題は、こんな普通に生活できる日があるかと思うと、突然に心臓発作の危険がある、或いは転倒して骨折・・、と。この頃の母の日常には常にそうした危険が付き纏うという。。、そんな状態だったと姉は私に説明していました。

今思えば、当時の母は私への電話の中で、「尚宏、もう独り暮らしは辛いよ。ご飯を食べる気もしないから朝から晩まで小さく刻んだニンニクの醤油漬けや梅干で済ませたさ」、と言ってきていました。冷蔵庫には茹でたほうれん草を冷凍保存したり、母が好きな鳥の手羽先などが大量に保存してあったはずなのに・・。「やっぱり、独り暮らしは虚しい」、と言っていたんです。

いつかしら、母は兄夫婦や姉夫婦の家で交互に世話になるものの、そこでの暮らしには自由がない。気を遣って貰うのも嫌だからと自宅に帰るのでしょうが、自宅での独居には団欒がない事にフッと寂しさを感じていたのだと思います。

姉兄の所から自宅に戻る度に、「尚宏、もう独り暮らしは辛いよ。ご飯を食べる気もしない」、と言っていた母。当時の私がもう少しだけ気が利く人間であったなら、母の言葉の真意が分かる息子であったなら・・、と悔いてしまうのです。

私は母が姉や兄の家から実家での独居生活に戻る度、料理好きな母の為に何とかして健康を取戻して貰おうと醤油や味噌、蜂蜜に漬込んだ刻みニンニクや昆布に煮干し、椎茸、木耳など、様々な乾燥食品をミキサーで粉末にした物を他のサプリメントと一緒に送っていました。乾物は健康にいい成分に溢れていますが固いのがネック。そこで私は微粉末にして送れば料理好きな母の事だからアレンジして使って食べてくれるはずだと思ったのでした。

この頃は辛うじて粉末のお茶が流通しだした頃。多分、昆布や椎茸、木耳などを粉末にした商品なんてなかった気がします。でも、この粉末食品や一緒に送ったカルシウムやマグネシウムなどの高価な総合ミネラルサプリメント類は姉や兄夫婦に渡してしまっていたと後々に知るのです。

♪:同居記録:3

♪:母が泣いた日


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☆:兄弟全員が認知症に対する認識が不足していた。

母の近くに住む長男が最初に同居を考えるようになったのは母の心臓発作が切っ掛けでした。
やがて、脚力が弱って日常的な動作の中で転倒を繰返し、段差のある箇所を歩く際などで足が上がり切らずに指を突き、骨折さえするようになっていくという母の変化がありました。老いの始まりの頃には僅かな段差でつまずいて倒れ、足の指を折る事が非常に多くなると聞きます。

私もそうですが、この頃の姉や兄にはまだ人間の脳の軟化や認知症という言葉への関心は深くはなかったと思われます。しかし、この当時の母の言動を今に思い起こせば、母には既に激しい認知が出ていたのだと思われるのです。

元来、1円でもお釣りが不足している事に気づいた時などには買物をしたスーパーに電話をし、確認した上でわざわざ受取りにいくほどの性格がきちっとした人だったが為、母本来の性格から出る言動なのか、認知があっての言動なのかの区別を周囲の誰もが理解できない状態になっていたのだと思うのです。

モノが無くなる。置いていた財布の中からお金が少しだけ消えている。だから、計算が合わない。もしかしたら留守中に盗人が家に入っている。「まさか息子嫁が・・」、と母は私への電話の中でもよく言っていました。計算する能力が無くなりはじめている母の姿だったのです。

こういう話は認知症が発症し始めたご老人と暮らす家庭では日常的に聞かれる言葉。
認知症の初期症状と言われますが、これを単なるお年寄りの物忘れや勘違いだと周囲の家族が勘違いしてしまうケースがとても多いと言います。兄や姉夫婦もその事を考える余裕がなかったのだと思います。

こうした母の様子を姉が電話で報せてくれるのですが、私自身も、「母は汚い歳の重ね方をしているな」、と思ったほどです。私を含めて子供達が認知というものを殆ど知らなかったというのが事実。。或いは、そう認めたくなかったのかも知れません。

☆:戦後の物資不足の時代を生きてきた母の言葉。認知ゆえの言葉・・。

母がよく言っていました。
父と母が戦後に住んだ家の庭にあったいい香りを出す山椒の木が一晩の内に盗まれていたり、飼っていた犬を綱から放したばかりに近所の大人に食べられていた・・。実に、母はそんな時代に生きてきたのです

敗戦という苦しい時代を経験された日本のお年寄り達には戦後の生活物資不足の頃の記憶が鮮烈に残っているのでしょう。辛抱に辛抱を重ねて築きあげ蓄えたものに対する拘りが常に残っていて、無駄や贅沢を非常に嫌うのだろうと思います。
これは多くのお年寄りに共通して言えること。だから、あるべき所にものがない、合うはずの数字が合わない、となると周囲の誰かが持って行った、使ってしまった、と感じても仕方がないと思うのです。

このようにモノがなくなる、嫁を盗人扱いするなどは介護家庭ではよく聞かれる事ですが、例に漏れずに兄の所でもこの問題が起き、母が若い頃から一番信頼していた姉の所でも大なり小なり似たような問題はあったはずでした。
当然、この問題は母が私の所へ来た際にも起きました。このどこにでもある問題をパスできない限り老いて認知の始まった親との介護同居は無理だと思うのです。

私は今も機会ある毎に母に言います。「母ちゃん、俺を信じるのなら、俺の嫁さんも信じないといかんよ」、と。
☆:長男夫婦がギブアップ。引継いだ長女夫婦にも事情が。再び、母を独居に戻す・・。

このような問題を日常的に抱えながらの長女夫婦や長男夫婦との同居と自宅に戻っての独居を繰返す期間が3年くらい続いた2003年3月。当時、母を再び、三度と長崎に迎えて暮らしていた長女の紘子から熊本に住む次男の私の元へと冒頭のような内容の電話が掛かってきたのでした。事情は違えど姉夫婦にも兄夫婦同様に母とは同居ができない理由が生じてしまったのでした。
「もう、私達夫婦にも母の世話はできない」、と。

母の連日のように続く厳しい言動に見舞われ、過呼吸症候群になってしまった妻を見た兄は、「母に責められる嫁が可哀想過ぎる」、と母の世話を断念、姉夫婦に母を託します。
そして、兄の後を引継いで母を長崎に呼び寄せて暮らしていた姉夫婦ですが、この姉夫婦にも3ヵ月後には母との同居が困難になるのです。姉夫婦には二つの理由があったのです。

実は、この頃の姉には脳動脈瘤が見つかり、母との同居を始めたのはその手術を受けた数ヶ月後の事だった為、姉には術後の慢性的な一過性の痛みがあり、相当に悩んでいたようです。更に、嫁いでいた長女が出産の為に一時帰郷してくるという事情が加わってしまったのです。

母との同居は出産する娘の為にもよくない。姉自身にも一過性とは言えど脳動脈瘤の術後の痛みがあって、母とは一緒に暮らし辛くなってくるのです。

☆:「もう、母ちゃんは十分に生きた」、と姉・・。

姉は、「母ちゃんの好きにさせた方がいいと・・」。「母ちゃんには実家の畳の上で・、もう十分に生きたよ」、と姉が・。しかし、私にはこの姉の言葉は冷たく響いていました。勝手に判断するな、と・・。

兄も姉も・、母を世話し始める動悸は兎も角、これまでを振り返ってみると、彼らの行動と言葉には自分の瞬間瞬間の都合、判断ばかりが優先されていて、持続がない、計画性が全くないじゃないか、と。最初から介護なんてできない奴が、同居を始める事自体が甘かったんだと思いました。計画性も覚悟もあったものじゃない。「何で、自分達に都合ができたからって、今、俺に電話なんだ」、と思ったのです。

でも、そうした事とは関係なく、私の記憶の中には、「尚宏、もう独り暮らしは辛いよ。ご飯を食べる気もしないから朝から晩まで小さく刻んだニンニクの醤油漬けや梅干で済ませたさ」、と言う母の電話の言葉が私の胸に鋭く突き刺さったままではあったのです。

「このままでいいはずがない」、と。

♪:同居記録:4

♪:水無月の頃

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☆:2009年3月現在でさえ、「誰の世話にもならずに生きていける」、と言う母・。

確かに、母自身は兄夫婦や姉夫婦の世話になる度、「あれが無くなった、これはこうじゃなかった」、「私は誰の世話にもならずに生きていける」、と気丈夫な言葉を繰返していたのだと思います。
これは96歳になった2009年3月現在の母であっても不機嫌な日には必ず発する言葉なんです。

車椅子生活であってさえ、「今日はデイには歩いて行った」、と言うくらいですから母は現状をよく理解できていません。この日常への自覚がない、というのは認知の典型的な症状です。

2003年3月の段階での母は心臓の不安定に加えて高血圧、左股関節には何本もの亀裂が入り、長崎では人工骨を勧められる程の身体になっていました。でも、母自身は自分の身体が思うように動かない。持病の心臓の調子が更に悪くなっている事に対しても多くは認識がなかったようです。

元来、心臓が弱い上に高齢の母には手術の際の麻酔の適量が分からないから人工関節の手術さえ受けられなかった事。だからこそ周囲の子供達が心配して同居を勧めているという事。これらへの母の理解力が殆どなかったのです。

☆:気丈夫な母のまともな言動・・、だと思い込んでいた姉や兄夫婦。

母を語る時、「気丈夫な人」、という印象は現在でもあります。しかし、姉や兄はその印象を強く持ち過ぎた為に自分達の判断をも遅らせてしまっていたのだと思います。つまり、「全てが気丈夫な母が発するまともな言動だ」、と思い込んでいたのです。

誰しも、「いつまでも母のままであって欲しい」、「あの母がここまで変になるはずがない」、とは思いたいものです。多分、姉も兄も母を理解してやりたかったんだと思うのです。しかし、母が自分達を、自分達との暮らしをどうしても受け入れてくれない・・。それは何故なんだろう、という思いが強くあったはずです。

「母よ、母であって欲しい」、と思う事自体が間違っていたのかも知れません。人間って悲しい生き方をするものです。

長男夫婦の元を離れた母を長崎に呼び寄せて3ヶ月間を同居し、心臓疾患、股関節骨折、左目失明・・こうした母の最新の身体の状態を一番理解している姉が何故?・・、同居を放棄?、と私は思いました。出産の為に長女が帰郷、という急な事情ができたにせよ、何故、僅か3ヶ月で母との同居を放棄するんだ?、と思いました。

ショートステイで様子をみるとか、病名なんていつでも幾つでも付けられる母の身体ですから短期入院をさせる事だって可能だったはずでした。母を実家に戻して独居させるなど、私には考えられない事でした。まだ、この頃の母の要介護度は2。

しかし、脳動脈瘤術後の姉は、「母と暮らしていると私まで頭が痛くなる。長男が言っていた意味が私にもよく分かる。兎も角、母を実家に置いて帰る」、と。

「嫁が可哀想で堪らん」、という長男の同居断念の言葉を数ヶ月前に聞いた上で長崎の自分の家へ母を引き取っていた姉の言葉ですから私は驚きました。母は姉にも頭痛の種になるのか・・、と。

「ああ、兄に続いて姉もついにギブアップか」、という印象でした。姉の真意はどうであれ、私には、「心配なら引き取りに来て欲しい・・」、という意味に聞こえたのです。ただ、野球馬鹿の私にとっては余りにも唐突な出来事過ぎたのです。

☆:あの日、嫁の目を盗むようにして帰郷した私。

この2003年3月26日。この日に私が佐世保の実家に母を迎えに行かなかったとしたら、多分、母は間違いなくあのままで数日後には逝っていただろうと思います。
多分、姉も兄もそこまで覚悟していたのでしょう。それほどに姉の症状も重く、同居する母の言動も卑劣を極めるものだったのでしょう。母の激しい性格を知る私は・・、「無理もない」、と理解するしかありませんでした。

この熊本の地に母を迎えての同居が7年目を迎えたからこそ言えますが、あの2003年3月26日、私はある種の憤慨と絶望を感じながら誰にも相談できず、何の準備もできずに半ば嫁の目を盗むようにして母を迎えに佐世保へ向かったのでした。辛く悲しかったです。人生というものをこの時ほど辛く考えた事はありませんでした。

☆:兄弟も母自身も[認知症]が分かっていなかった。

家族って何だ、兄弟って何だ、覚悟って何だ・・、と思いました。そして、母親って何だ、人間って何だと・・。私の姉も兄も私も、母自身も[認知症]が分かっていなかったのです。

それまでの約3年の間、姉と兄は母との同居に関し、「熊本の尚宏には母との同居は無理だ」、と決め付け、蚊帳の外に置いていながら母が自分達の手に負えなくなった途端、心身共に最悪の状態の母を佐世保の実家に置き去りにして逃げ出したようにしか思えてなりませんでした。

「母ちゃんはお腹を減らしているだろう・・、可哀想に・・。ホラ、見てみろ親父。あんたが期待した長男はこの始末さ・・。何てザマだこの野郎。母ちゃん、今帰るから待ってろよ」、と私は佐世保へ向かう車の中で何度も叫んでいたんです。

私が母の元へ駆けつけた2003年3月26日の約一ヶ月前。母は2月26日に満90歳の誕生日を迎えたばかりでした。人生って虚しいものです。

♪:同居記録:5

♪:老い、そして俺達


☆:老いの汚さは見なくていい。命だけを見たい。

佐世保へ向かう車中で考えました。同居の切っ掛けは老いた母の為を思ってとは言え、老いていくだけの母に対して兄も姉も・、勿論、それまでは蚊帳の外に置かれていた私自身を含め、俺達兄弟は一体何をしているのか分かっていない。子供達が母に行なっている事は尊厳も何もない所業だと思いました。「まるで、・・母をタライ回しにしているだけではないか」、と。

母を哀れと思い、暮らしてみて無理だと思えば,「やはり、同居は無理だ」、と決心を簡単に翻す・・。
確かに、母との共存よりも自分の家族の生活を優先する事は当然です。人の老いは難しい問題です。日本全国の介護家庭でも私の姉や兄夫婦が繰り返したような出来事が多いのだと思います。

元気だと思っていた父や母に突然の変化があり、驚き嘆き、どうにかしようとして状況判断を誤り、中途半端なままで同居生活に入る。やがて、辛抱が適わずに施設へ送る・・。

☆:生活のBGM、BGVに配慮を。

母の場合、実家のそばを流れる川のせせらぎや鳥の声。東の空から射す朝日や西空に沈む夕日・・、様々なものへの愛着もあったのでしょうか?。生活BGM、老いいく過程でのBGM・・、そんな生活環境への憧れのようなモノがあるんだと思います。老いを考える時。老いた父母との同居を考える時にはそうした事への配慮も必要かも知れません。

多分、兄や姉が母の独居の日々に不安を感じ始めたのは姉が30歳代、兄にしてもまだ30歳の頃。切っ掛けは母の高血圧や心臓機能に対する不安だったはずです。
しかし、やがては認知が目立つようになる母。その母に振り回される日々。刻々と母から消えていく母性・・。そんな現実を否定したい兄や姉・・。そして、認知に対する理解が浅い故の失望・・。大変な葛藤の日々だったと思います。

☆:老いた親との同居・・、何かを棄てる覚悟が必要。

でも、老いて認知も進んだ母親に対してこそ与えるべきものが、まだまだあったのではないかと思っています。
前述したように、在宅での介護って介護する側が一つ二つと何かを棄てる覚悟がないと難しいんです。介護する側がそれまでの生活の全てをそのまま維持できるはずがありません。それまでの自分達の生活基準を維持しながら介護生活に入る・・、そこに無理が生じてくるんだと思います。
兎も角、こうした経緯があって行き場知らずになってしまった母を私が迎えに行ったのでした。

☆:兄貴よ、仏前に手を合わせお袋の無事を祈っている、ってか?。

姉は言います。「兄ちゃんは母親の無事を祈って、毎日仏壇に向かっているよ」、と。
自分の命を削りながら私達兄弟を育ててくれた母です。そんな母の老いた姿を哀れみ刹那的に涙を流したり、手を合わせて先祖に祈る?、冗談じゃない。母は生きているのに。仏前に手を合わせて何を祈るんだ。そんな事では片付かないものがあるんだと思いました。母は今もこれからも俺と生きていくんだ、と。

薄れいく母の命を哀れみ涙を流すのか?。芋虫のように転がる母に手さえ差伸べず、仏壇に手を合わせて何になるんだと思います。母は存命しているよ!。今は祈る時じゃない、これからが本当に行動する時なんだと言いたい。

☆:認知の初期は不安感や怒り、沈黙。多分、母の認知は60歳代半ばから・・。

厳しい話になりますが、若い頃の姉は証券会社に勤めていて、世間の例に漏れずに友人や実家への勧誘もしていました。父亡き後に既に独居中の母は戦後の混乱期から夫婦で買い集めていた電力株を姉に委ねた事がありましたが、母は心のどこかに預ける事への不安や怒りがあったのでしょう。その後の約2年間に渡って、「株券がない、どこに置いたんだろう」、「・・そう言えば、紘子が来て株券の話をしていた。紘子が持って帰ったのだろうか。そんな事をする子じゃない・・」、と熊本の私に毎晩のように電話をした時期があります。

私が母に説明すれば、「・そうだったのか。紘子もいろいろと考えてくれているんだね」、と納得するのですが、翌日になると、再び、「株券が・・」、と騒ぎ出すのです。
無理もありません。戦後の混乱期に電力株を買い求めた者には特別な高配当をなされた時期があって、その後も特別株主として一般売出し価格よりも安く買えるという優遇された株券だったからです。

☆私が母の行動に疑問を感じ始めた出来事。

この母の、「・・らしくない行動」は他にもあります。私と二人で行った父の墓参の帰りに肉を買って帰ろうと立寄ったスーパーでの出来事なんですが、母は弱った視力(後に白内障で手術)の為か、末っ子可愛いさの私の為か価格を気にせずに牛も豚肉もチキンも構わずにパックを次々と買物かごに入れるのですが、私はどうも母の様子が変な事に気づきました。母は既に買った同じ肉のパックを次々と籠に入れているのです。

「こんなに肉を買ってどうするんだ?」、と私が聞けば、「・・あれっ、こんなには肉は要らんのに・・、お前が篭に入れたのか」、と聞くのです。
悲しいかな、この頃の私は上の二人の姉兄と同様、「母らしくないな、慌て者の母らしいな」、程度にしか理解していなかったのです。

今思えばこそですが、既に日常生活のいろんな場面で母には局所的に認知が始まっていたのだろうと思います。これは母が68歳の頃の出来事でしたが、この後にも訪問販売の勧誘に負けて様々な生活品を簡単に購入してしまうなど、次々と自分を見失うケースが多発し始めたようでした。

♪:同居記録:6

♪:ホッホ

03-夏a

☆:「まだ一人で暮らせる。好きに暮らしたい」。この言葉こそが認知の母の言葉だった。

2003年3月の長崎の姉からの電話の件に話が戻ります。

前述したように、当時の姉の身体には自身が受けていた脳動脈瘤の手術による術後の様々な一過性の症状が出始め、更には嫁いでいる長女がお産の為に姉の元に帰省する予定も加わっていて、姉には自分自身の体調不全の中での母の介護と出産帰郷する娘の世話の両立は到底できるものではないという状況が迫っていたのでした。

しかし、この姉からの電話を聴いた私は、「親を看るって、そういう事ではないだろう」、と思いました。今まで兄夫婦、姉夫婦と同居した期間の長さの分だけ母には依存心が芽生えているからです。母からは間違いなく自活能力が落ちているはずでした。

確かに、姉は決して私に対して母親の世話を引継ぐように頼んでいる訳ではありませんでした。母を母の思う通りの独居をさせる為に佐世保の自宅に連れて行くと伝えてきただけの事でしたが、母の思う事は認知の症状、母がしたい事も認知の結果なはず。母の暴言も含めて全てが認知が進んでいく過程の老いた母の姿だったはずなんです。姉はその事に気づいてはいなかったのです。

しかし、それを姉に言っても理解しないと感じました。もう、姉は姉なりに悲痛な思いで結論を出していたんです。姉には大切な家庭があります。母と一緒に介護地獄へ落ちる必要などありません。落ちるなら私がその役を果たすしかない、と考えたのです。

ただ、私は受話器の向こうの姉の背後には私達の父の姿があるような気もしていたのです。「紘子、もうお前には無理。寂しくなるが熊本に連れて行け。尚宏となら必ずうまくやれる・・」、と父が姉に受話器を握らせているような気がしていたのです。

こうして、この時の姉からの突然の1本の電話はその後の私の人生を大きく転換させる事になるのです。

☆:兄弟に与えていた私の印象

それまでの姉や兄の判断に、「尚宏には母親の世話はさせられない」、という判断があったのでしょう。腸重積による手遅れと言われた中で行なわれた9歳の時の私の腹膜炎大手術。この手術で私は小腸の40%、大腸の25%、その他の臓器も部分切除したりと、大変なものだったのです。
そして、その術後不全による20代半ばまで繰返した幾度もの手術。その結果、生きる目的を失った私は自身の命さえも傷つけた事もあった私の10代後半から20代でした。

30代にはイタリアンレストラン経営失敗での2千4百万近い多額の負債。やる事やる事がうまくいかない。私の人生はそんなものだったのです。
そんな私の暮らしの一部分を知る姉や兄にとって、私に母親の介護をさせるという事など考えられない事だったのでしょう。しかし、私は姉からの電話の後に本能的に動き始めました。

☆:2003年3月26日、佐世保へ帰郷。「俺は・・忘れ物をしていた」。

(♪:同居記録:9)の続きになりますが、姉からの電話を受けた私は3月26日に佐世保へ向かいました。
それは・・、まるで嫁の目を盗むようにして熊本の我家を出たんです。佐世保へ向かう高速道路の車中、私は狂人のように叫びながらアクセルを踏み続けました。姉や兄に対してではありましたが、人間が敵わぬモノ、老いというものが憎くて仕方がありませんでした。「この野郎、この野郎!、母ちゃん、待ってろ」、と叫んでいたんです。

母は姉に連れられて自宅に戻って3〜4日経っていた頃でしょうか。私は玄関の呼び鈴を押すのを控え、まずは茶の間のある裏庭の方へ向かいました。そして、ガラス窓の隙間から覗き込む私の目にはそれは悲惨で変わり果てた母の姿が映ったのでした。

まるで芋虫のように茶の間に転がる母の姿。私の脳裏には元気な頃の母の仕草や笑い声がコマ送りの動画のようにフラッシュバックし、私は車に戻り泣きました。そして、悔いました。大切な忘れ物をしていた事を悔いました。多くの人間の末路ってこんなものなのかって思いました。

「命が転がっている。母の命が消え始めた・・」。威厳も何もない。まるで、芋虫・そんな弱った母の姿でした。悲しかったですよ。

☆:畳の上に命が転がっている。「ヒロ子はどこ、ヒロ子っ」。

私は陽気な笑顔を見せようと思った私は車の中で笑い顔を作る練習をした後、「ただいま帰りました」、と勝手口のドアを開けて母の横たわる茶の間に向かいました。玄関には錠が掛かっていました。

「あら?、誰?・・尚宏かね?」。

約4年振りに帰った私の事を母が分かってくれた事に安心しましたが、突然の私の帰郷に驚いた母が身体を起こそうとしますがそれができません。

「ホホッ、何でだろうね・・ホホ」。

母の唇はカサカサに乾いて脱水状態になっていた為、私はバッグに入っていた飲みかけのペットボトルのお茶を軽く飲ませました。兄、姉夫婦との数ヶ月の暮らしの中で母の依存心だけが増長していて、喉の渇きをお茶で癒す事さえ忘れているのでした。

「どれ、美味しいお茶でも煎れ直そうか・あれ、・紘子はどこ?・、さっきまで一緒にいたような気がするけど。ヒロコ―、尚宏が帰ったよ。ヒロコ、ヒロコっ」、と母は暫くの間は紘子の名を呼び続けていました。

母は長崎から紘子に連れられて佐世保の自宅に戻った事を理解してなく、佐世保の実家と長崎の紘子の家の区別ができていない処か、紘子はこの家で自分と一緒に暮らしているんだと理解しているのです。

「買物にしちゃ遅いね・、ホホッ、私には何がどうなっているのかさっぱり分からない」、と母が言います。

「母ちゃんは独り暮らしがしたくて長崎の姉ちゃんの所からこの佐世保に戻っとるのさ」、と私が言えば、「・で、紘子はここにはおらんのね・・。ああ、何が何だか私には分からない。歳をとるって嫌な事だよ」、と言います。

炬燵のテーブルの上には兄嫁が届けてくれたらしい一日分の母の食料が入った鍋やお茶セット。炬燵横にはお湯ポットなどがありましたが母が手をつけた気配は全くありません。母は空腹感さえ感じていない処か、今が朝か夕方か、今日が何日か何曜日かも知らないのでした。

今思えば、丁度、この日から丁度1ヶ月前の2月26日に90歳を迎えたばかりの変わり果てた母の姿でした。

多分、昨夜も、その前の日も・・母は長崎からこの自宅に戻って以来、寝床に就くことなく、ずっとこの茶の間に朝から晩まで転がったままだったのです。

♪:同居記録:7 

♪:春は・・まだ
  
2009.9.25武雄コンサート:1

☆:この状態で・・、独居をさせると判断したのか?。

母は失禁をしているらしく、茶の間には多少の汚物の匂いもありましたが、もう、母自身は皮膚感覚も嗅覚も鈍くなっていて、そうした事すら気がついていないようでした。
私としても帰宅早々、「あれは汚い、これは何故ここにあるんだ」、などと掃除を始めたり、モノを移動させたり質問などをしては母の心が乱れると思っていた処、「尚宏、オシッコに連れて行っておくれ」、と母が頼んできます。

これは酷い・・、母は立てないじゃないか。これを承知で長崎から連れて戻ったのか?。母は自力では起き上がれない、立てない、歩けない状態だったのです。

要領を得ないながらも母を立たせて杖を持たせますが、立上がって歩こうとすると、「股関節と両膝が痛い」、と言っては崩れ落ちるように私に倒れ込むのでした。それだけではなく、右半身を下にして転がっているだけですから右手が殆ど上がらず、持った杖に力が入らないのです。

母をトイレのソバまで引きずるように運び、渾身の力を入れて母を抱え上げて便座に座らせる事ができましたが、「これじゃ・・、独居なんてとんでもない話だ。母を独居させるとこんな状態になる事くらいは分かるはず。こんな姿が母自身が望んでいた姿だと姉や兄は本気で思っているのだろうか」、と思いました。ただ、同時に、「こんな状態の母の世話をしていたのか・・、これじゃ大変だったろう」、という思いにもなるのでした。

兄と姉が交互にお世話していた分、母には依存心だけが増殖していて自活能力が完全になくなってしまっていたのです。生きる気力が完全に失せている・・、そんな母の姿がそこにありました。

ここまで書けば一見して虐待・・。そんなふうにも思えるのですが、必ずしもそうではない事が2003年3月29日から始まる私達夫婦と母との暮らしの中で展開されていくのです。それは認知が引き起こす母の人格崩壊というものでした。

☆:あァ、憎むべきは、[認知症]。

この2003年3月から遡ること約4年前、私が佐世保へ帰省した時の母は86歳。まだこんな感じではなく、白い割烹着姿で母は台所に立って私を歓待してくれました。鳥の唐揚げをしたり、私の大好きな押し寿司を作ってくれたり・・・。
しかし、後に近所の方から聞いた話では、既にこの頃の母は買物を詰めたカートを押して帰る坂道で転倒しては通りかかる誰かが抱き起こしてくれない限り路上に転んだままだったとか・・。
当時の母が使っていた買物カートを見ると赤黒くなった血糊が付着しているのはその頃の怪我で出血した痕跡なのだろうと思います。
今思えば、私を含めて姉も兄も認知症という言葉や意味をどれほど理解し、やがて訪れる介護問題として捉え考える事があったかは多いに疑問です。

気丈夫だった母親だけに、「しっかりしなさい。どうしたの、母ちゃんらしくない」、という思いだけが強くあったのだと思います。

♪:同居記録:8

♪:TU-KI-HI

04-八景水谷公園

☆:同居1年目、母が危篤状態になった事。

母は夫・利三郎の没後6ヶ月を過ぎる頃、私達夫婦は西合志町須屋という所に1軒目の家を建てます。そして、母は新築の祝いにと熊本を訪れています。私が27歳の時です。

この時の母は私の家から300mもあるニコニコ堂というスーパーに買い物に行ったり、「昔風の魚屋さんのある場所を教えておくれ」、と場所を聞いてはその翌日に家から4Km近くもあろうかという堀川駅のそばにある魚屋さんに買物に行っては私達夫婦の為に夕飯を作ってくれていました。
この時、「2週間くらいは居させて貰うよ」、と母は言っていたのですが、この滞在中に左腕が痺れたり、左脇の下が痛み出したという事で5日ほどで母を佐世保に連れて戻っています。これが母の再びの心臓発作の前兆だったのです。母が65歳の時でした。

そして、この後も母は約4年間に渡って不定期に左腕や左脇の下付近に鋭い痛みを感じるようになっていく様子を電話で私に伝えてきました。「尚宏、昨夜も具合が悪くなってネ・・」、と。
そして、ついに独居5年目を終える69歳の時に強い心臓発作で倒れ、搬送先の病院ではICU治療室に寝かされ、ペースメーカーを埋める手術はできずに心臓の状態を電波で飛ばして24時間監視をされるという状態になったのでした。

心臓肥大が進行していたのですが、身体が衰弱していて麻酔の適量が分からない、という理由でペースメーカー埋め込みの手術を適用できませんでした。
この入院の際、医師からは、「もう、畳の上で静かに逝かせるのも考慮に入れるよう」、指示があったのですが、ここで私と母の奇跡が起きるのです。何と、母は自宅に戻った4日後、「ベッドから外の景色を見るのに、庭の柿ノ木の枝が邪魔になる」、と倉庫から脚立を持ち出して柿の木の枝を切り落としたのです。母の気丈夫さ、強運を示す忘れられない出来事でした。

☆:私には弟がいたはず・・。

ここで、私に対する母の特別な思いの事を書いておきます。前述した、心臓発作での入院時の事。
危機状態を乗越えたという医師の判断で一般病棟に移そうとした途端、再び発作を起こすという厄介な日が続きました。勿論、子供達は最悪のケースを想定して病院に駆けつけていました。
この時、母はベッドの傍らに姉や兄が居るというのに、私を枕元に呼んでは、「尚宏、・・オシッコよ」、と小さな声で言うのです。姉や兄嫁などは、「一体、この隔たりは何なのだろう」、と思った事かも知れません。

幼い頃からの私の知る限り、母はずっとそうでした。母は姉や兄の前では母親であろうとする気持ちが強いのですが、私の前ではか弱き女性になる事が多かったのです。
よく、母は父や姉、兄に背を向けては白いエプロンの裾で涙を拭き、時には台所で私を抱きしめ泣く事がありました。姉などは現在でさえ、母の泣いている姿は見た事がないと言いますから不幸な事です。この母の姿は私しか知らない事。

思えば長女は父に似て学問が大好きで、家での姉は勉強机に向かう事多く、兄は陸上競技や野球に没頭。私と姉は7歳違いで私と兄は3歳違いなのですが、私は姉と一緒に遊んだ記憶がありません。体格のいい兄は常に2〜3歳年長組とスポーツをしていました。私も同年齢の子供とは背丈が頭一つ違うほどの大きさがありましたが、私はいつも母のそばに居て、おのずと私と母だけで過ごす時間が多く、買物にしても私は心臓の弱い母について回り、やがては買物自体を幼い私が母の書いたメモを頼りに引受けるという、そんな日常が当り前のようになっていくのです。

また、遊び心からではあったのですが、私は畑に胡瓜や茄子を作っては母に買い上げて貰ったり、カマドで米を炊く母の腰が痛くないようにと1回座っただけで壊れてしまうような椅子を作ってみたりと・・、幼い頃の私と母は一心同体のように仲が良かった事を覚えています。

いつも私は母が喜ぶ事を考え、母もそんな私を可愛がってくれました。しかし、母が私を特別に可愛いがったのはそうした事だけが理由ではなかったのです。

☆兄弟で私だけが知っていた母の堕胎。

母には長い間私達兄弟には伝えていない苦しい胸の内があったのです。それは、私の次に生まれるはずだった男の子を堕胎せざるを得なかったことですが、私はその事を母から聞かされた訳でもなく、9歳の時点で何故か知ったのです。

私がその事を知ったのはあの手術中の臨終宣告を受けた直後、涅槃の里を訪ねた際に会ったことすらなかった祖父に私は会い、その弟に会っていたのです。

☆:母は4人目の子供に注ぐはずの愛情まで私に注いでくれていた。私の不思議な臨死体験。

母には姉や兄、私には伝えていない積年の苦しい胸の思いがあったのですが、私はその事を私が臨終宣告を受ける程の大手術をした際、何故か私は不思議な世界に導かれていき、そうした事実を知らされたのでした。
この時、私はまだ9歳。神や仏の世界さえ知らず、信仰への関心も興味もない、そんな9歳の少年が訪ねた涅槃の里での出来事でした。

私はその事を父が没すまで、母にさえ確認だにせず、父にも姉兄に対しても口に出す事はありませんでした。だから、母が私に示す愛情を幼いながらに理解していたつもりです。ずっと母は堕胎という心の傷を私を可愛がる事で癒そうとしていたのです。

♪:同居記録:9

♪:露草


☆:その臨死体験

前述したように、私は9歳の時の腹膜炎手術の最中に私の左横で血圧を測っていた看護婦さんの、「血圧が30に下がってしまいました」、という言葉と、「手術中止します・・・臨終です」、という医師の声を聞いたのです。この時の医師とは佐賀県伊万里市にある西田病院の院長である西田健太氏。

9歳の子供が臨終という言葉の意味が分かるはずはありません。しかし、「自分が違う世界に逝く」、という感覚はあるんです。幼かった私でも、何が起きているかは分かりました。

周囲の人の気配が少なくなった手術室の中で私だけが取り残されたような感覚でした。それでも、暫くの間はオペ室の中で手術器具を片付けるような人の気配やその金属音など、オペ室のドアの向こうの母の泣き叫ぶ声が聞こえたり消えたり・・。

「ボクは生きているのに・・。何で先生は手術を止めてしまうの?」、とそんな事を考えていたのをこの歳になっても今だに覚えているのも不思議なものです。

どのくらいの時間が経ったかは分かりません。私は不思議な世界にいたんです。
そこは紫色の蒸気のようなものがたち込めた世界。私はとても不安な気持ちになっていたのですが、遠くから誰かが近づいて来ます。二人の人物で、咄嗟に私は、「ボクの祖父と弟だ」、と察しました。でも、顔がツルんとしていて表情が全くないのです。祖父と弟だと分かっているから怖くはないのですが親しみも湧きません。

躊躇している私に一つのメッセージが伝わってきました。
「もう、いい。もう、十分だからこっちへ来なさい」、と。よく見ると祖父は右手を差し出し、私にも手を伸ばして掴めと伝えていました。祖父の左手は弟の右手を握っていました。

でも、私には顔が見えない、表情が見えない祖父の手を掴む勇気がありませんでした。
「そうだ、母ちゃん。ボクは母ちゃんに会いたい」、と。そう思った瞬間でした。

「尚宏っ、尚宏っー」、と私の名を呼ぶ母の声が再び聞こえ始めたのでした。そして、再び手術室の
頭上にある殺菌灯が私の目に映り、私は激しい痛みを感じ始めたのです。

まだ、現在のようなガス麻酔による全身麻酔ではなく、脊髄に麻酔を打つ頃。点滴液でさえ精製レベルが低く、静脈ではなくて温シップをしながらの筋肉注射が全盛の頃です。

手術室では看護婦さん達の慌てた様子や戸惑い、驚嘆の声が聞こえていました。

「先生、この子の身体が動いています。血圧が元に戻って来ています。血圧が上がっています」、「不思議な子。この子は不思議な子ですよ先生!」、という看護婦さんの叫び声や泣き声が手術室一杯に聞こえていたのを覚えています。

こうして、私は手術中に不思議な世界に導かれた先で祖父に会い、祖父に右手を引かれた私の弟と出会ったのでした。神仏に対する知識も関心もない僅か9歳の子供が見た紫色の世界。それは、本当に不思議な世界でした。

☆:母親の魂の篭もった祈りは神仏よりも強い。

母親の魂の篭もった叫び声は神仏よりも強い、と私は思います。「尚宏、尚宏っ・・、頑張っておくれ」、「尚宏、死なんでおくれ!」。

オペ室のドアの向こうで悲しみに泣き叫ぶ母の声はあの紫色の世界にまで響き渡ってきました。私は彼の地で祖父、弟と話をする事ができました。

「もう、いいじゃないか。もう、痛み苦しみはお休みにしなさい」、と祖父が私に手を差出していました。しかし、弟に続いて二人目の子供を失いたくない母の必死の叫び声は間違いなく彼の地に響き渡ってきたのです。
一瞬ですが、「ボクは母チャンを放っておけない」、と思ったのです。そして、かの地を離れた私は母の叫ぶ声を頼りに再びの現世に戻ったのです。

母は4人目の子供を堕胎しなくてはいけなかった事に対し、ずっと深い悲しみを背負って生きていたのです。だから、母は私の次に生まれるはずだった子供への愛情までをも盲目的に私に注いでいたのだと思うのです。
母が69歳時、あの心臓発作で倒れた時の病院で見せた母の態度。「尚宏・・オシッコよ」、という言葉。今思えば、あの時の母は私の背後にいる弟の姿さえ見えていたのではないかと思うのです。

☆私は弟と入れ替って現世に戻ったのかも・・。

私は確かに現世には生きています。でも、もしかしたら、私の魂はあの9歳時の臨死体験の際から祖父と弟の隣に置いてきているような気がする時があるんです。もしかしたら、あの時に魂だけが弟と入れ替わり、ここに居る私は弟なのかも知れないと思う事がよくあるのです。

何故なら、あの手術以来、私の身体の中から本来の私とは違う別な意思を感じる事がよくあるからです。
あの若い頃、自分の存在を探して山に篭もったように、「母に生命を返す時」を書くことで自分が与えられた2つ目の命が誰のものかを私は今も探しているのかも知れません。

そして、実はこの大手術の数十年後に胆嚢ガンを疑われて摘出手術をしたのですが、この手術室でも私は実に不思議な経験をする事になるのでした。

☆:母が語った4人目の子供の事。「俺は知っていたよ」、「私の中に住んでいる弟」。

父・利三郎の葬儀も終わって初七日を迎えた時、母は姉兄と私の3人の子供を仏壇の前に集め、水子供養をする旨の説明をしようとしました。しかし、前述したように、既に私はこの事実を9歳の時の手術台の上で知ってしまったんです。

「母ちゃん、俺は随分と前から知っていたよ」、と母に伝えたら、この時の母が非常に驚いた表情をしたのを記憶しています。このように、あの幼い日の大手術からの生還以来、私には自分の意思とは別にもう一つの不思議な力が加わる瞬間が今でもよくあるんです。

実は、私の人生はこんな事の繰返しなんです。時に、私が自分らしくない詩を書いたり、自分の詩に涙したりします。恐らく、こんな時は私の中に住んでいる弟が詩を書いているんだろうな、と納得するのです。
また、私の中に末っ子であるという意識がないのはそうした事が理由だと思います。この思いは姉や兄が私の事を本当に理解する上では大切な要素だと思っています。

♪:同居記録:10

♪:弓削神社にて


☆:私の作った肉じゃがをお代りした母

長崎からの姉の電話の後、私が佐世保の実家に帰った際の話に戻ります。

母をトイレに運んで便座に座らせた私は母に対して、「あっちこっち痛い、辛いと感じるのは生きている証拠!。生きていてこそ感じられる痛みさ」、と言えば、「・・そうね」、と母は答えます。

「もう、駄目だと思えば次から次に落ちるように駄目になっていくものさ」、と言えば、「・・そうね」、と力の無い返事が返ります。

「頑張って生きようと思えよ」、と言えば、「そうは思わん。もう・、いいよ」、と言います。

「そんな風だと簡単にはお迎えになんか来て貰えんよ。・・ほら、俺の為に歩いてくれ」、と言うと、母は意を決したように、「よしッ」、と言いながら顔を顰めながらも便座から立上がろうとするのです。
支えてさえやれば立てるのですが、骨折箇所の左股関節や両膝の痛みに負けて立っている事に恐怖を感じていたのです。しかし、痛みであれ、恐怖が原因であれ、立てば倒れるのは事実ですから、[全介助]状態の母でした。でも、この頃の母は何故か要介護度が2の頃。

私はトイレから茶の間に戻った母のお尻を温タオルで拭き、新しい下着やズボンに履き替えさせながら心に誓うモノがありました。「絶対にお袋をもう一度歩けるようにしてみせる」、と。

この日、夕食にと私が作った肉じゃがを母はお代りして食べてくれました。

炬燵の天板の上に右腕を乗せ、手首だけを起用に動かしてスプーンで食べていました。私の母、実は胸焼けがするという理由でジャガイモが苦手なんです・・・。

☆:2003年3月28日。帰熊前、思いついた鍼7本で奇跡。

翌々日の事です。佐世保に住む兄嫁が10:00頃に顔を出して昼ご飯時に冷麺を作ってくれました。
私は母には同居の事を言わずにいました。熊本への帰りの時刻も近づき、その支度をしようとバッグを開けた私はいつも持ち歩いている鍼ケースを見つけたのです。
「・・そうだ、お袋の上がらない右手に打ってみよう・・」、という気になったのです。本当に偶然でした。

2001年、当時私が所有する草野球チームの練習の際、私は転倒して腰椎を分離骨折してしまい、勧められた手術を断って以来、通院もせずに放置したままの状態。この私自身の抱える腰椎分離骨折の痛みや痺れをとる為に自分の身体に打つ分なら問題ないだろうと持ち歩いていた鍼だったのですが、どういう訳かこの機に母に打ってみたいという衝動に駆られたのでした。
「母ちゃん、上を脱いでご覧。右腕だけでも上がるようにしてあげるよ」、と私は言いました。

ストーブを近ずけ、私は母の右肩の前後、肘と背中に合計で7ヶ所に鍼を打ち込みました。更に、多少の痛みがありますが、鍼を差し込んだままで右腕を掴んで前後左右上下に揺するのです。
鍼を打ったままで腕を動かす事はかなり痛いのです。でも、母は私を信じ切っていました。こうした状態を15分くらい保った上で鍼を抜くのですが、何と言うことでしょう。母は上がらないはずの右腕を真上に上げてグルグルと回し始めたのです・・。

☆:「尚宏、熊本に・・・ついて行っていいね」、と母が。

「尚宏・楽になったよ。とてもいいよ!」、と母は喜色満面で喜びを表現してくれたのでした。まるで、7本の鍼が起こした奇跡でした。そして、「尚宏、熊本に・・ついて行って・・いいネ」、と母が言ったのです。

気丈夫でなかなか弱音を吐かない母の言葉に私は驚きました。それはとてもゆっくりと噛みしめるような口調でした。
母は左手で顔を隠し、指の間から私の表情を確かめるような仕草で、「尚宏、熊本に・ついて行っていいネ」、と2度言ったのです。
この時の母の遠慮がちな表情、それでいて腹の底から絞り出すような声を私は今でも憶えています。
「母ちゃん、その言葉を待っとったよ」。

母の生涯の中で、母が何かを周囲に懇願したのは二度目の事でした。因みに、母の最初の懇願とは、暴れる長男に土下座してまで言った、「お願いだから大学を続けておくれ」、という言葉でした。

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2003.3.28:佐世保の実家にて/熊本へ出発する直前の母

♪:同居記録:11

♪:弥生の頃


☆:そして、・・熊本に向かう車中 

「♪どこから私しゃ来たのやら〜、いつまたどこへ帰るやら〜。♪咲いては萎む花じゃやら〜、群れては遊ぶ小鳥やら・・」。

熊本への車中、母は楽しそうでした。十数年振りに聞く母の歌声でした。この歌の題名は母自身も知りませんが、辛い時、楽しい事があった時に母はよく唄います。幼い頃の尋常小学校の学芸会ではソロで唄った事もあったと言います。
母の両親が経営していた歌が浦の平田山炭坑には中国や朝鮮からの労働者が大勢居て、恐らく彼らが故郷を偲んで唄っていたのではないかと私は解釈しています。

佐世保インターから西九州道に乗り、三河内インターを越えた頃からの車窓から見える山々の桜の花が綺麗でした。
「ほら、あそこの黄色っぽいのは山桜さ」、「うん、あれはあれで綺麗ね」、などど言っているうちに、「処で尚宏・・、私はどこに行くんだろうね?」、と母が尋ねます。

「どこでもいいさ、あんたの思うまま、行きたいまま、気の向くままさ」、と言えば、「そうね、お好きなようにどこにでも、どうにでもしてくれよね」、などと言い、「♪どこから私しゃ来たのやら・・」、と再び歌い始めます。

そして、やがて、「処で尚宏、この車はどこに行くとね?」、と尋ねるのです。私も負けずに、「どこでもいいさ、あんたの思うまま、気の向くままさ」、と何度も何度も答えていましたが、自分の母親が私のそばに存在する満足感とその母の余りの変わり様に驚いている私がいたのです。

既述したように、この25年前、母が65歳の時に熊本へ来て滞在して以来の事。下駄を履いて4kmも離れた堀川駅そばの魚屋さんまで買い物へ行っては美味しい料理を作ってくれた母が今は私の隣の助手席ですっかり老いぼれてしまっているのです。

☆:嫁が猛反対していた母との同居。

実は、佐世保から熊本へ戻る際、母を連れて帰るようになった経緯を嫁に電話した際、嫁は猛反対したのです。「絶対に無理、連れて帰らないで」、と言いました。ごもっともの事ではあるのです。

経済面で言えば姉兄の所で同居するのが一番。しかし、同居ではなく介護なんです。それが無理なら施設へ入所させるしかないというのが嫁の考えでした。
それも選択肢の一つですが、現実に母は姉の所に滞在していて戻ったばかり、兄にしてもこれ以上の同居はできないという事で姉の家へ母を送ったのが3ヶ月前・・。もう、母には行き場がなかったのです。

独居を挟んでこの数ヶ月は長男夫婦か長女夫婦のどちらかと住むというパターンの生活を約3年に渡って繰返した母からは既に自活能力は消滅しています。しかし、母はもう長女や長男との同居は無理。母は彼らの家庭や家族の健康さえも壊しかねない存在になっていたのです。

私は、「俺達だって同居を試みない事には自分の意見を持てないじゃないか」、と嫁を説得しての帰熊になりました。

☆:嫁には入院中の実母の周辺介助があった。

嫁が反対した理由。実は嫁にはこの数年前から腎臓疾患で入院中の寝たきりの実母の介助の日々があったのですから反対も無理はなかったのです。

☆2003年3月28日。熊本に戻る。玄関から居間に辿り着けない母。

熊本の私の家に着いたのはいいのですが、母を車から居間の椅子に移動させるまでが大変な作業になりました。
車の助手席から玄関までの母は私の腰に手を回し、私は母の左側から背中に回した右手を母の右脇に後から差込んで、半ば持上げるようにして歩かせました。やはり、相当に股関節が痛むようでした。
次に玄関から居間へ上がる際、足がどうしても上がりません。長い期間の摺り足の癖があって足を上げようとしても上がらないのです。

母は、「ホホ・・何でだろうね」、「歩き辛いよ・ホホ」、膝の痛みを我慢するように四つん這いになって玄関を上がり、居間までは毛布の上に座らせて引き摺り運ぶ始末でした。

私は老いた母の姿を見ながら怒りや悲しみ・、いろんな感情を含んだものを感じました。「兄や姉が母に対して抱いた感情もこんなものだったのかな・・」、そう思いました。

この時、私の前をもの凄い早さで時間が流れ始めたのを感じましたネ。
「俺は負けない、兄や姉と同じ失敗は絶対にしてはいけない・・」。

まさしく、私が私自身を相手に闘いを挑み始めた瞬間でもあったのです。明日から、母との同居が始まる2003年3月28日の事です。

♪:同居記録:12・同居開始

♪:母がピエロになっていく


☆:2003年3月29日、母と同居開始。

母は幼い頃から心臓が弱く、また長年の神経痛に加えて変形性膝関節痛があり、更に腰骨と左股関節にも経年骨折がありました。夫没後の独居生活5年目を終えようとした69歳時の母を最初の命の危機が襲います。

夫亡き後、食事を作る張合いもなく、話し相手も少ない独居生活の中で持病の心臓が一段と衰弱したのでしょうか、ICUで24時間監視を受ける状態にまでなりました。

「最後は畳の上で」、と言う医師の言葉で自宅に戻リましたが、この時は奇跡的な回復をみせて事なきを得ました。幼くして母親を腎臓病で亡くしている母は体質的に循環系が弱いようです。

ただ、日常的には気丈夫な面があって、70歳代前半には若い頃からの痔を悪化させますが、子供達にも知らせずに実姉の子である甥の向(むこう)浩美氏に相談、病院を探して貰っては自分で手術を受けに行くほどの母でもあったのです。

更に、70代台後半には高血圧による眼底出血があってレザー手術を受けましたが、出血が止まった代償として左目の視力を失っています。また、84歳の頃には白内障を患っては当時大牟田営業所に勤務していた長男夫婦の勧めで大牟田でその手術もしています。これが私の知る限りでの熊本に来た当時の母の既往症です。

その母が私達夫婦と同居を始めたのは2003年3月29日。

90歳になって間もない母は杖をついて歩く事もままならぬ状態でした。熊本の私の家に着いて玄関に上がる際などには嫁が床に敷いた毛布に座り、居間まで引き摺って運ぶ有り様・・。

しかし、一度床に座ったら二度と立てません。居間のソファーに座らせるのが大変。具体的に言えば、母の左脇に左手を入れて右手で衣服の腰の部分を掴み上げるようして介助すれば立て、母の左手を柱などに触れさせている間に右手に杖を持たせるのです。座る時はその逆。自立歩行は左手で掴み支える事ができるような柱や壁のような固定物が次々と母の歩く方向の左手に現われない限りできませんでした。

また、仮に杖をついて歩き始める事ができたとしても両膝、特に左膝の痛みがひどい時には崩れ落ちるように倒れます。
結局、常に誰かが添い歩きをする必要があるという、そんな状態でした。全介助の状態なんです。
「これじゃ、兄や姉の家では大変な同居だったろう・・」、そう感じました。
 
☆:同居2日目、2003年3月30。母が転倒

母の状態を完全に把握していない故に起きた事故でした。居間を四つん這いで這ってしか歩けない母が歩こうとするなんて・・。
この日も私は仕事を休んでは母の介護をしていました。介護というより監視でしょうか。「いつ、何をしようとするかが予測できなかったからです。姉との引継ぎの悪さが招いた事故でした。
母はどのくらいの事ができ、どんな事ができないのか。どんな事をしようとした時に注意をしないと危険なのかが全く分からない状態での同居開始だった事から起きた事故なんです。

床なり、畳なりに腰を下ろさせれば二度と立ち上がれません。寝る時だって床に直接布団をひけば安心です。しかし、それだとポータブルトイレさえ独りでは使えません。
私はそれだと不便だろうとベッドを和室に準備し、ポータブルトイレを母に使わせようとしていたのです。これが失敗でした。

それまでのハードな仕事を突然休んで母を迎えに佐世保へ向かい、そして帰熊するなり不慣れな同居を開始し、疲れが残っていたのかも知れません。
私はこの日も出勤の目途も立たないままに会社を休み、和室のベッドで眠る母の様子を伺いながら春の選抜高校野球大会のTV中継を見ていたんです。やがて、居眠りを始めていたらしい私の耳にもの凄い音と悲鳴が聞こえてきたのでした。

母が私の背後に倒れていました。居眠りを始めた私の姿を居間続きの和室から目撃した母は私に毛布を掛けてやろうと思ったみたいでした。こうして、熊本での最初の転倒事故が起きてしまうのです。

ベッドから降りた母は片手で部屋の柱を掴みながら右手で自分の毛布を引き剥がしては居間の床に転がる私の方へフラフラと踏み出そうとし、そのまま転倒したのでした。立っても立ち続けている事ができない母が毛布を持って2本の足で歩こうとしたのですから倒れて当たり前です。

もう、もの凄い音でした。五体が健常な者の倒れる音ではありません。まるで、立て掛けた材木が一気に倒れたような音でした。この転倒事故は母親としての本能が引き起した事故だったと思うのです。

母はこの転倒で骨折こそなかったものの右足太股の数本の静脈を切断、激しい内出血で腫れ上がり、左足が不自由な母は大切な右足の自由を奪われて完全に寝たきりの状態になってしまうのです。
私達夫婦にとっては最初の試練が訪れたのでした。

♪:同居記録:13 

♪:蜃気楼


☆:ついに寝たきりになった母。

寝たきりですからこれ以上の危険はありません。しかし、責任を感じた私は勤務数を極端に減らし、母のそばに付き添う事を覚悟します。湿布や氷で腫れを抑え、腫れが収まれば温湿布をしながらマッサージと・・。同じ作業を繰り返す日々が始まるのでした。 

☆:現実が分からない母が嫁を激しく非難。

翌朝、母は昨日の転倒事故の事を忘れ、夜中にポータブルトイレを使おうとしてベッドから滑り落ち、立てるはずがない母はそのまま畳を汚しては朝まで転がっているのです。何故、私達に助けを求めないのか・・。老いに対する怒りや悲しさを感じ始める私でした。

「夜中に助けを求めて周囲に迷惑を掛けてはいけない・・」。老いて尚、気遣いを忘れない母。しかし、この頃の私には母の長い人生を思い遣る心も尊敬の気持ちも今ほどにはなかったのだと思います。老いは誰にでもあること。老いを理解するには目の前の老いを認めることから始まります。認めるには尊敬の念が無ければいけません。

ただ、現実を言えば、嫁が汚物のついた衣服を脱がせたり身体を洗おうとしたりすると母は激しく嫁を責めました。
「何の為に着替えるの?、何の為に私の身体を洗うの?、私はそんなに汚いのかい!、と。

母はもう昨夜の出来事をすっかり忘れているのです。転倒で静脈が切れ、紫色に腫れ上がった自分の足を見て驚くのですが、痛みがある分だけ気分が苛就くのでしょうか、気丈夫な母だけに嫁に吐き掛ける言葉には相当に辛辣な表現もありました。

「私が倒れたって?・・。何をしていて倒れたんだい?」。
「そんな事知るもんか。多分、うたた寝をする俺に毛布を掛けようと思ったのさ」、と私。

「そうか。処でお前は寒かったのか?。どうして板張り(床)で寝転んだりするんだ?」、と母。
「寒くなんかはなかったさ。母ちゃんは自分が何かを掴んで立ちあがっても歩けないのが分からんのか?、気の使い過ぎなんだよ」、と私が言えば、「あァ、そうかそうか!。お前には私の気持ちが分からんのだな?」、と母。

この瞬間認識と瞬間記憶消失という二つの糸で織られた母の現実。この時、私は介護の大変さを痛感しました。一つ一つが始めて経験する事でした。

私は、「あの母親が・・、俺の母親が・・」、と思いました。第一、この頃の私は認知症という言葉自体を使った事がない人間だったのです。

☆:一つ一つの介助に対し、その理由を求める母。

もう、仕事どころではありません。母は嫁から受ける世話を好まないものだから、一つ一つのお世話をする際に時間ばかりが掛かるのです。

「はい、お義母さん。お顔を拭きますよ」、と温タオルを持った嫁が母の部屋に入れば、「私は自分で洗面所に行くのに・・」、と迷惑そうな表情をします。

「お義母さんは上手く歩けないでしょう?」、と言えば、「そんな事はないよ、私をバカにするのかい?、第一、私の部屋に声も掛けずに勝手に入って来ないでおくれ」、と激しく嫁を牽制するんです。

こんな調子で母の朝の起きがけの顔を拭くだけで15分は要します。第一、一つの介助をするのに、何故そうする必要があるのかという事を逐一説明する事から始まるのです。母にはすべての事に説明が必要でした。さっきと同じ介助をするにも・・、最初から説明する必要があるんです。

☆:とんでもない事になった。

一日の世話に疲れ果て、一気に崩れ始めた私達夫婦の生活。私のこれからの人生を思うと、「とんでもない事になった」、と思った事が何度あった事か・・。覚悟はあっても、じわじわと堪えてくるのです。

歩けない母親を蔑んだ事もあります。「どうしたお袋!」、「世話をして貰っている癖に何て言い草だ」、と母を責める心が芽生え始めます。「認知が言わせる言葉じゃないか。それが老いさ、俺もやがては母の気持ちも分かるようになるさ」、と母を護る心が私を制御します。
私の心の中ではいつも二つの人格が闘うようになり、思案続きの日々に過呼吸症気味になっては息苦しくなる夜が何度もありました。

母もそんな私の表情を読み取るのでしょうか、「私は佐世保に帰るよ、大和町に帰りたい。それが駄目なら・いっそ殺しておくれ」、と叫びます。それは悲痛なくらいの表情で叫ぶのです。

母も悔しかったのだと思います。思うようにならない自分の身体と監視される辛さ。「こんなはずじゃない・」、という思い。「お願い、助けておくれ」、と言ってしまう自分。
「いつの間に、私はこんな身体に・・」、と振返ろうとしても思い出せない中抜けの記憶。

母はこの3〜10年の自分の暮らしを断片的にしか振返れません。母が思い出す事の多くは50〜80年前の事ばかりでした。しかし、母の思いは思いとして、現実には母には独居など到底無理。

「ああ、姉や兄も母のこうした姿を見て途方に暮れていたんだ」、と実感させられたのでした。

♪:同居記録:14

2009.9.25武雄コンサート:1

♪:施設にて


☆鍼・灸・マッサージ。俺が変わって見せるしかない・・。

「このままでは母も私達夫婦の暮らしも駄目になる」、と本当にそう思いました。でも、思い悩んだ私は、「母には姉や兄と同居した時と同じ日常を与えていては駄目だ」、と結論を出したのです。

今の母には長女夫婦や長男夫婦と過ごした時間とは違う、私ならではの別な何かを与える必要があると考えました。それが母を変えるかも知れないと思ったのです。

「そうだ、母に指圧やマッサージを試みてみよう」、と思いました。周囲が嫌がる仕事や根を上げそうな仕事をコツコツと根気よく続ける事は割と私の性分にあっているのです。マッサージくらいは誰にでもできますが・・。でも、この頃の私は自分がピアノやギターを弾く事。音楽が母との緩衝役を果たすなど、まだ思いつかない頃だったのです。

私は嫁に言いました。
「この現実から逃げちゃいかん。これは俺が神から科せられた修行なんだ。母に変化を望むなら自分が変わって見せるしかない」、と。私は薄暗い部屋の中で天井を見上げて呟いていたのです。私はこの頃から妙に涙もろくなっていくのです。

私は必死でした。
歩行ができない母に対する朝夕のマッサージにお灸、そして、素人は行なってはいけない鍼さえも専門家の元へ習いに通いました。母が訴える痛みを私自身が痛いかのような素振りで幾つかの鍼灸院に通ったのです。禁止行為だと分かった上で教えてくれる鍼灸師さんも居たのです。

しかし、実際に母への鍼を施術しようとする段になると習った通りの部位へ打つというのは怖いものがありました。結局、この頃の母への鍼は無難で安全な部位にしか打たないという、そんな程度のものになっていたようです。

☆:私自身が抱えている腰椎分離骨折滑り症。

実は、母の来熊前の2001年の事。私は自分の会社が持つ野球チームの練習中に転倒して背中の一部の骨が縦に割れるという、正確には腰椎分離骨折滑り症という状態になり、背骨を支えている左右の腰椎が割れ、ボルトを入れて支える手術を勧められていたのです。

しかし、約2年を費やしてボルト固定と取り外しの2回の手術をしても完全な元の身体に戻る保証はないと言われ、私は野球を続ける中で腹筋を鍛えて背骨を安定させる方法を選んでいたのです。

だから、今日現在でも背骨が臍の方向にズレたままで、天候や季節によっては左右の足に痺れがあり、その度に私は自分で自分自身に施術しています。だから、私は鍼治療で痛みや痺れがある程度は消える事を自分の身体で知ってはいたのです。でも、折れた骨、ズレた骨が元に戻るわけではありません。

☆:所持していた草野球チームの解散を決意。

母の来熊直後の転倒、そしてその後に始めた必死のリハビリ。こうしたリハビリは母にも私にとっても大変な忍耐と努力を伴いました。

連日、母に施した全身へのマッサージに鍼やお灸。そして、寝たきり生活で関節が固くなってもいけません。私は横になった母の両足を私の胸や腹に当て、「足突っ張りさ、自転車を漕ぐようにして俺の胸や腹を蹴ってみてくれ」、と言っては母に蹴らせました。
この運動が私の腹筋も鍛えてくれるのです。また、母の手の指の間に私の指を入れては「力の入れっこ」をしたり・・。

そして、私はそれまで十数年と続けた大好きな草野球チームも解散する事を決意します。

私は職場に行く日を減らしては週の大半を母と過ごす事になりましたが、この後にも凄い決断と代償が必要な事になっていくのです。それは母の老いの進行、母の認知の進行でした。

☆:私の仕事、嫁の事情。

私は音響や照明機器の操作をする小さな会社を経営していて、ある公共ホールの仕事をさせて頂いています。だから、ある程度は自分で勤務時間の調整ができる生活環境だった事が母の介護には幸いしました。
勿論、人出不足を補う為、新たなパート従業員を雇う為の出費が重なるものですから我が家の家計には大変な影響がありました。

一方、嫁は既に1級ヘルパーとして利用者宅に出向く訪問介護という就業の方法を選択していましたが、母の来熊後の転倒でそれまでの私達夫婦の日常がすっかり変ってしまうのです。

私と嫁のどちらかが必ず在宅していなければなりません。嫁はヘルパーを続けますが、私は基本的に仕事には出ない、と。出たとしても週に2回程度。私が出社する日には嫁は仕事に出ない。
私が出社したとしても9:00〜14:00勤務か15:00〜19:00勤務程度。兎も角、私か嫁の何れかが必ず母を看る必要があったのです。

こんな状態ですから、私も嫁の収入も激減したのは当然です。また、嫁には介護福祉士の受験資格を満たす為の勤務時間の累積ができないというジレンマが相当にあったのではないかと思います。

 また、既述したように、嫁は嫁で既にこの時期の6年前以上も前から入院中の実母の月曜から金曜日の夕方の食事介助や院内での洗濯という大変な日課があったのです。
 
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